2009/08/06

日本アンドロイドの会、あるいはデザイナーとデベロッパーの協業について

中学校の頃でしょうか。わたしはウィリアム・ギブソンのニューロマンサーという小説を読んで主人公のCaseに恋をしました。
重力にかまわず行動し、どこにでも入っては、取ってくる。電気みたいなCaseがかっこよくてかっこよくて。
そして思春期の少女らしく「いつかビットに乗った王子様が、わたしをサイバースペースに連れてってくれるはず」と夢想したものです。
そして大人になったとき、サイバースペースはギブソンの頭の外にもあるものだということを知りました。わたしもそこへいってはみたのですが、レイヤーが違うせいでか、Caseには会えませんでした。

あれから随分時間が経って、わたしはある人に会いました。その人はいつも自分用の小さなアンテナとクローム(窓)を持っていました。もしかするとCaseのレイヤーに通じているのはこの人かもしれない。私はその人を、入り口まで追いかけました。
入り口には「日本アンドロイドの会」と書いてありました。

結論を先に申しますと、日本アンドロイドの会にCaseは居ませんでした。ビットの世界の元気な幽霊がCaseだとすると、そこに居る「開発者」という人たちは面白いことにビットでアトムを拡張してしまうのです。

ニューロマンサーを読んだ事がないとわかりにくいかもしれませんが、Caseはアトムの世界では単なるアホです。人造人間Mollyちゃんが居ないとどうにもなりません。わたしが子供心にCaseを好きだったのは、そのコントラストに愛嬌を感じたせいもあります。しかしここにわたし自身の過去の認識がみてとれるでしょう。それは、Caseのようにコードの上を「走る」人間は、ビットの外で使える魔法、つまりアトムに影響及ぼすことが可能な魔法を持たない、という認識です。

では、開発者はどうでしょう。確かに開発者も時にコードの上を「走り」ます。しかしそれだけではありません。それと同時に、常に何かを「走らせ」ます。開発者にとって、走ることと走らせることは、どうやら同じことのようなのです。石ころからロボット、もちろん人間に至るまで、走ることで、走らせる。まるでCaseとMollyがひとつになったような存在が、開発者だ。というように、わたしは認識をあらためることになりました。

話は変わりますが、よくデザイナーとデベロッパーの協業に関する困難が、話題にのぼることがあると思います。こうした話題は開発者がビットの世界にしか影響力を持たず、アトムの世界に対する影響はデザイナーが引き受けるものだという認識を前提に語られていることはないでしょうか。だとすると、その前提は間違いです。
それは、互いの能力に差がない、という意味ではありません。互いが住んでいる世界に差がない。ということです。ウィリアム・J・ミッチェルが言ったように、もはやビットとアトムの世界に差は無いのです。違いがあるとすれば、それは物事へのアプローチのベクトルだけです。

ではこの問題について、デザイナーは何をすべきでしょうか。ここ最近わたしが考えている1つの理想は、アトムをビットに還元する際の精度をなんとかして高めることです。具体的にはもっとコードを理解することかもしれませんし、ツールを今以上に、まるで自分の体の一部であるかのように使うことかもしれません。機器のアーキテクチャを知ることでもあるでしょう。

そういうことがらを、もっと知りたいので、これからも日本アンドロイドの会で役割を見つけていきたいな。と思う次第です。そう。長くなってしまいましたが、これはデザイナーに対して会をアピールするための文章なのでした!

おしまい