2019/03/30

映画「万引き家族」の雑感


「万引き家族」は2018年の是枝裕和監督作品。カンヌ映画祭最高賞を受賞している。是枝監督の映画はこれまで一度も鑑賞したことがなくて、テレビで放映していたドキュメンタリードラマくらいだった。
現時点で見終わってから2日くらい経っているが「最初のシーン」とか、映画としての「流れ」が全然記憶に残っていない。それどころか細かいストーリーの起伏とか、名台詞への関心とか「ああ映画観た」という感覚が今全然ない。これは作品をディスる意図でのこととは違う。
いま私が素直に思うことは、映画の登場人物に対して「みんな今頃どうしてるかなあ」だ。

ほとんどのカットが「汚い」というか、過剰な生活感にあふれている。映画ってこう「ほら。なんだかんだいって日常って美しい風景にあふれているよね」みたいなのを人々に気付かせるのが仕事なのかなと思っていたのですごくびっくりした。たとえば不遇な境遇のホームレスがニューヨークで朝寒さをこらえていたら雪が都会の汚れをみんな覆っていました...。みたいなコントラストとかは映画っぽい。あるいは老いた女のある仕草に高潔な美しさを込めて「老いるのも悪くないな」と感じさせたり。

ところが万引き家族の舞台である垢じみた木造の家は、私が子供の頃「この人たちはどうやって生活しているのだろう」と思いながら見ていた貧乏な木造の家そのもので、見ているとその頃見かけたそこの家の窓際で日に焼けたへんなキャラクターの貯金箱も思い出すくらいだった。
極め付けは樹木希林の汚さ。今私が思い出してしまうシーンのかなりを樹木希林がなんか食ってるシーン、そのすすりかた、しゃぶりかたが占めている。そんな小汚い婆さんはカサカサだけど暖かい手をしていて、おせっかいで、子供にだけはやさしい。私にとって婆さんとはそういうもんだったしこの映画もそうだった。
あの家の裏庭には絶対にゼニゴケがはびこってぬるぬるしているだろう。やぶ蚊も相当いるだろう。日の当たらない物干しで乾かす服はいつも生乾きの匂いがしているに決まっている。
この映画は色々なシーンが「自分自身の記憶のようなもの」と簡単に混ざってしまう。その結果、自分もこの風景には何か関わりがあるんじゃないか?と思わせられた感じだ。

タイル貼りの風呂が古くて狭くて汚くて、キッチンは油まみれ。婆さんがいて、子供らがいて、男と女がいて、その日暮らしでも飯食って、お互いを気遣いあいながら暮らす。婆さんは家で縫い物。子供や親世代は外で食べられそうなものや使えそうなものをとって帰ってくる。人間はずっと昔からそうやって暮らしてきたんじゃなかったっけか?
劇中で現代風の小奇麗な家庭のシーンがでてきた時にそう思った。その小奇麗な家が二律背反的に「人間的でないもの」という単純な解釈を誘った。でも世の中そんなに単純じゃないから、私の心にそういうふうに映っただけだろう。

最後のほうのシーンで家族が離散したあと量産型のアパートで一人暮らしをしているリリー・フランキーが「風呂がすごく綺麗なんだよ」と言うセリフは良かった。きっとこの男は綺麗な風呂付きの部屋でひとりで死ぬだろう。そんな含みを勝手に感じた。意思の無いひとりはなんだかとても恐ろしい。

それにしても安藤サクラの顔は異様だ。肉付きの良い腕とか、なんとなく猫背っぽい姿勢とか、近所に何人かいた。そういうなんらかの面影が常にダブりやすい顔というか、安藤サクラの「本当の顔」に対する認識が私は今だに無い。そういう彼女がシーンの中でうろうろ歩いているのを見ているだけで、本当にこっちとあっちがごっちゃになる。面影で構成されている女。今度は時代劇にでてほしい。

唯一、映画らしい美しさを私が感じたのは、ボロ家の狭い庭から縦一列頭を並べて見えない花火を観るシーンだった。みんな音を一生懸命聴こうとして笑いながら上を観ている。たった1つ、そこだけすごく綺麗に覚えている。何の意図があった構図かわからないけど、人と人とが一瞬でも同じ方向を観て笑うことの繰り返しが生きることなら、けっこう幸せだなーと思わされた。