2009年8月4日から9日まで開催の丸山数理個展-Déjà vu-に行ってきました。
丸山数理は現在ギャラリートリニティに所属の画家で、おもにアクリルを使ったドローイングを手がけています。
個展では、やや以前の抽象画や、近年の「ワタシト云ウ幻想ハ」シリーズ、同様のモチーフで描いた「或ル日、吹キ飛バサレテ」などを展示していました。
まず、抽象画の作品をじかに観るのは今回が始めて。で、想像以上に素晴らしかった。モチーフは風景なのですが、フォーカスが定まらない、いわゆる「ミスショット」にあたる風景写真のかたちを作家の脳内色彩変換装置でトランスフォームして再描画した作品です。モチーフはとろとろになるまで徹底的にぼけているんだけど、像のつながりから読み取れる情報があって、人間が居たり、街灯があったり、建物があったりというのがわかります。じっと観ていると、ああ、わたしも過去にまったく同じ風景をみたことがある。とか、あれはさむくてさみしい日だったなあ。とか過去の感情がぐーっと表に出てくるような感覚が起こりました。
同作品のように写真をモチーフとして描いた絵画はフォト・ペインティングというジャンルにあてはめて整理されていますが、この分野はドイツのゲルハルト・リヒターという作家のリングネームみたいなものです。リヒターはもともとアカデミーへの反抗心で写真をモチーフにすることを思いついたそうですが、モチーフがぼけてあいまいになることでおこる鑑賞者とのインタラクションは丸山数理と同じです。丸山数理はリヒターをもっと過激にしたようなかんじ。
ちなみにリヒターの作品は、東京国立近代美術館がいくつか所蔵しています。
さらに、今回初お目見えだった作家の心象風景を描いた作品「或ル日、吹キ飛バサレテ」。これがとてもよかった。イメージデータが公開されていないので言葉で説明するしかないですが、「ワタシト云ウ幻想ハ」シリーズで風景に佇んでいた人物が、部分的に雲とマージしている作品になっています。マージする様子は、砂で描いた人間を指で引っ掻いたかんじといえば伝わるでしょうか。粒子が風で飛ばされて雲と繋がっているというかんじ。
消えつつある人間、というとなんだかネガティブな印象を持ちますが、作品からはむしろ積極的に体や精神を風景まで拡張しているかのような、ポジティブな印象を受けました。
なぜ、ポジティブにみえるのか。ああ、わたしもむしろこうなりたい。という期待感というか、わくわく感を持つのはなぜなのか。作家本人にうかがったところ「それはきっとぼくが直感頼みでいつも制作してるからじゃないかな?本当になんにも考えてないんですから。ははは」という答えが。
「でも、ああ、今ってこういう気分、こういうかんじ。と、思いながら、えいやっ!と下絵も描かないで、仕上げちゃうんです」と。わたしはポスト物質時代の芸術家らしいな。素敵だな。と思いました。
そのあと、ふたりでしばらく話しましたが、今後定着させやすいデジタルでも作品をがんがんつくって量を増やしていくことの意義などで盛り上がりました。よく芸術作品に対してデジタルはダメでリアルは良いという判断をするむきがありますが、芸術性というのは作家の精神の問題が大きいですし、それにドローイングの場合、デジタルでも基本的なインプットは手描きですからテクニックは問われます。技術の問題というよりもむしろ、感じたままに定着するということってなんだかやってみる価値ありそうね。そのためにはデジタルって望ましい環境よね。というカンというか、方向性にわくわく感があればそこには何かがあるのだと思います。
最後に満面の笑顔で数理さん、「11月は代官山で地元の友達の顔をぐるぐる回す装置を展示する予定なんで、また来てくださいね!」と言ってました。
大爆笑しました。楽しみです。