2019/03/30
映画「万引き家族」の雑感
「万引き家族」は2018年の是枝裕和監督作品。カンヌ映画祭最高賞を受賞している。是枝監督の映画はこれまで一度も鑑賞したことがなくて、テレビで放映していたドキュメンタリードラマくらいだった。
現時点で見終わってから2日くらい経っているが「最初のシーン」とか、映画としての「流れ」が全然記憶に残っていない。それどころか細かいストーリーの起伏とか、名台詞への関心とか「ああ映画観た」という感覚が今全然ない。これは作品をディスる意図でのこととは違う。
いま私が素直に思うことは、映画の登場人物に対して「みんな今頃どうしてるかなあ」だ。
ほとんどのカットが「汚い」というか、過剰な生活感にあふれている。映画ってこう「ほら。なんだかんだいって日常って美しい風景にあふれているよね」みたいなのを人々に気付かせるのが仕事なのかなと思っていたのですごくびっくりした。たとえば不遇な境遇のホームレスがニューヨークで朝寒さをこらえていたら雪が都会の汚れをみんな覆っていました...。みたいなコントラストとかは映画っぽい。あるいは老いた女のある仕草に高潔な美しさを込めて「老いるのも悪くないな」と感じさせたり。
ところが万引き家族の舞台である垢じみた木造の家は、私が子供の頃「この人たちはどうやって生活しているのだろう」と思いながら見ていた貧乏な木造の家そのもので、見ているとその頃見かけたそこの家の窓際で日に焼けたへんなキャラクターの貯金箱も思い出すくらいだった。
極め付けは樹木希林の汚さ。今私が思い出してしまうシーンのかなりを樹木希林がなんか食ってるシーン、そのすすりかた、しゃぶりかたが占めている。そんな小汚い婆さんはカサカサだけど暖かい手をしていて、おせっかいで、子供にだけはやさしい。私にとって婆さんとはそういうもんだったしこの映画もそうだった。
あの家の裏庭には絶対にゼニゴケがはびこってぬるぬるしているだろう。やぶ蚊も相当いるだろう。日の当たらない物干しで乾かす服はいつも生乾きの匂いがしているに決まっている。
この映画は色々なシーンが「自分自身の記憶のようなもの」と簡単に混ざってしまう。その結果、自分もこの風景には何か関わりがあるんじゃないか?と思わせられた感じだ。
タイル貼りの風呂が古くて狭くて汚くて、キッチンは油まみれ。婆さんがいて、子供らがいて、男と女がいて、その日暮らしでも飯食って、お互いを気遣いあいながら暮らす。婆さんは家で縫い物。子供や親世代は外で食べられそうなものや使えそうなものをとって帰ってくる。人間はずっと昔からそうやって暮らしてきたんじゃなかったっけか?
劇中で現代風の小奇麗な家庭のシーンがでてきた時にそう思った。その小奇麗な家が二律背反的に「人間的でないもの」という単純な解釈を誘った。でも世の中そんなに単純じゃないから、私の心にそういうふうに映っただけだろう。
最後のほうのシーンで家族が離散したあと量産型のアパートで一人暮らしをしているリリー・フランキーが「風呂がすごく綺麗なんだよ」と言うセリフは良かった。きっとこの男は綺麗な風呂付きの部屋でひとりで死ぬだろう。そんな含みを勝手に感じた。意思の無いひとりはなんだかとても恐ろしい。
それにしても安藤サクラの顔は異様だ。肉付きの良い腕とか、なんとなく猫背っぽい姿勢とか、近所に何人かいた。そういうなんらかの面影が常にダブりやすい顔というか、安藤サクラの「本当の顔」に対する認識が私は今だに無い。そういう彼女がシーンの中でうろうろ歩いているのを見ているだけで、本当にこっちとあっちがごっちゃになる。面影で構成されている女。今度は時代劇にでてほしい。
唯一、映画らしい美しさを私が感じたのは、ボロ家の狭い庭から縦一列頭を並べて見えない花火を観るシーンだった。みんな音を一生懸命聴こうとして笑いながら上を観ている。たった1つ、そこだけすごく綺麗に覚えている。何の意図があった構図かわからないけど、人と人とが一瞬でも同じ方向を観て笑うことの繰り返しが生きることなら、けっこう幸せだなーと思わされた。
2011/09/11
奪われたものを取り戻そうとしてさらに失う
コーエン兄弟大好きでーす(とはいえ90年から2000年の10年間の作品すべてしか見てないんですが)。
やっとノーカントリー (原題:No country for old men)みました。2007年の作品です。
アメリカと死という巨大かつあまりに抽象的な概念の現場をすごいデッサン力で細部にわたって描画した2時間でした。
私の映画史上最強にタガの外れた描画で光った狂人格者が、人殺しとして万能屠殺銃を武器に登場します。この役の演出が素晴らしかったです。
人と人とのあいだに「不都合」という変な状況が起こる理由は、いつかかならず死ぬと知っていながらも、今日は死なないんじゃねーの?明日もだいじょうぶじゃん?という漠然とした期待のなかで、損しないように、なくさないように、減らさないように目を光らせて生きているからです。
生きてるうち得た金は無くなっていくし、努力しなければ技術も失います。若さも、健康も、性欲も、美しさも、ぜんぶある一定の分けまえから減る。そのうえいつか死ぬ。
分けまえの減り具合に敏感すぎて、そのぶんを取り返そうとする人もいます。
人のぶんを奪おうとする人もいるし、減ったぶんよりもっと得ようとする人もいる。そういう気持ちの総称を欲といいます。
だとすると不都合に敏感な人ほど欲が強いと言えるかもしれません。
人は奪われたものを取り戻そうとしてさらに失う。結局は傷口から出る血を止めるしかないんだよ。
劇中、元警官が言う台詞です。
因果応報から脱却しなさいよ。という意味にちがいないですが、因果の因が奪うことなら、与えることがもたらす結果は簡単に世界を救うことができるはずです。
まずは、自分に起きた不都合にもっと鈍感になることからはじめよう。と、この映画を見て思いました。
最凶の刺客、シガー扮するハビエル・バルデム。保安官を殺害中。むかしトム・クルーズの彼女だったベネロペ・クルスと結婚しましたね。トムとはある意味、兄弟です。
ほんとはこんな顔。
やっとノーカントリー (原題:No country for old men)みました。2007年の作品です。
アメリカと死という巨大かつあまりに抽象的な概念の現場をすごいデッサン力で細部にわたって描画した2時間でした。
私の映画史上最強にタガの外れた描画で光った狂人格者が、人殺しとして万能屠殺銃を武器に登場します。この役の演出が素晴らしかったです。
人と人とのあいだに「不都合」という変な状況が起こる理由は、いつかかならず死ぬと知っていながらも、今日は死なないんじゃねーの?明日もだいじょうぶじゃん?という漠然とした期待のなかで、損しないように、なくさないように、減らさないように目を光らせて生きているからです。
生きてるうち得た金は無くなっていくし、努力しなければ技術も失います。若さも、健康も、性欲も、美しさも、ぜんぶある一定の分けまえから減る。そのうえいつか死ぬ。
分けまえの減り具合に敏感すぎて、そのぶんを取り返そうとする人もいます。
人のぶんを奪おうとする人もいるし、減ったぶんよりもっと得ようとする人もいる。そういう気持ちの総称を欲といいます。
だとすると不都合に敏感な人ほど欲が強いと言えるかもしれません。
人は奪われたものを取り戻そうとしてさらに失う。結局は傷口から出る血を止めるしかないんだよ。
劇中、元警官が言う台詞です。
因果応報から脱却しなさいよ。という意味にちがいないですが、因果の因が奪うことなら、与えることがもたらす結果は簡単に世界を救うことができるはずです。
まずは、自分に起きた不都合にもっと鈍感になることからはじめよう。と、この映画を見て思いました。
最凶の刺客、シガー扮するハビエル・バルデム。保安官を殺害中。むかしトム・クルーズの彼女だったベネロペ・クルスと結婚しましたね。トムとはある意味、兄弟です。
ほんとはこんな顔。
2011/08/27
ウィル・フェレル
ウィル・フェレルが好きです。
マイク・マイヤーズより好きかもしれません。
アメリカ人は関西人だと思うことがたまにありますが、ウィル・フェレルの前世は間違いなく関西芸人です。
ベン・スティラーも好きですが、ちょっときれいめなのでもうちょっとアホさがあればよいですね。
マイク・マイヤーズといえばオースティン・パワーズですが、
わたしはどちらかというと昔のウェインズ・ワールドのほうがお金がかかっていないぶんそこはかとない楽しさがあってよかったです。
アメリカのコメディアンではジャック・ブラックも人気があり、ベン・スティラーとはTropic Thunderで競演していましたね。ジャックは「濃さ」が外見にマッチしているのでわたしはそんなにタイプじゃないです。
ところでベン・スティラーやマイク・マイヤーズと競演経験がありながら、コメディアンでない役者は誰でしょう。
それは、トム・クルーズです。黙って以下の映像を見てください。Tropic Thunderの歴史に残るエンドロールです。
トム・クルーズもおそらく、前世は関西芸人であったことが、わかっていただけるのではないでしょうか。
それが言いたかったのです。
マイク・マイヤーズより好きかもしれません。
アメリカ人は関西人だと思うことがたまにありますが、ウィル・フェレルの前世は間違いなく関西芸人です。
ベン・スティラーも好きですが、ちょっときれいめなのでもうちょっとアホさがあればよいですね。
マイク・マイヤーズといえばオースティン・パワーズですが、
わたしはどちらかというと昔のウェインズ・ワールドのほうがお金がかかっていないぶんそこはかとない楽しさがあってよかったです。
アメリカのコメディアンではジャック・ブラックも人気があり、ベン・スティラーとはTropic Thunderで競演していましたね。ジャックは「濃さ」が外見にマッチしているのでわたしはそんなにタイプじゃないです。
ところでベン・スティラーやマイク・マイヤーズと競演経験がありながら、コメディアンでない役者は誰でしょう。
それは、トム・クルーズです。黙って以下の映像を見てください。Tropic Thunderの歴史に残るエンドロールです。
トム・クルーズもおそらく、前世は関西芸人であったことが、わかっていただけるのではないでしょうか。
それが言いたかったのです。
2009/11/19
エンターテイメント:美人はネットでアクティブに活動しない
先日ヘアサロンで幻冬社のGingerという、30代半ばから50代くらいまでの女性をターゲットとしたファッション誌を読んでいたところ、茂木健一郎さんという面白い髪型のおじさまが連載コラムの中でそう書いてました。
もうちょっと違った書き方だったとおもいますが
・ネット上に自分の複製をせっせとつくるような行為をする女性はイケてない
・ネットで自己顕示欲を満たすような女性はイケてない
・そもそも女はネットでアクティブになるべきでない
といったようなかんじの内容だったとおもいます。
たぶん、だれか特定の個人について書きたかったんだろうな。というかんじの文章で、その真意をぼかすつもりで「女」とかでかいくくりをつかっちゃったもんだから何が言いたいのかよくわからない文章になっていたのでしょうが、もしわたしの読みが当たっていたら、あーネットを軸にして知的労働に従事するコンサルとか評論家的な女性のことがこの人は嫌いなんだなあ。と思いました。
でも、メディアでアクティブになる女性のマインド、という点においては、テレビの人もネット人も、そうたいして変わんないのではないでしょうか。
テレビには昔から女優とかタレントさんというくくりで女性がいますし。
ネットとテレビの間には「自分で自分をかつぐ」「他人に自分をかつがせる」という大きな違いはあるにしても「なんか忙しそうに見える」という出力結果は対してかわんないですし、出てる本人のマインドとしても徹底的にやっているもの同士では、その根源にある「私は認められるに足る人間である」という絶対的な自己肯定の力に差はないと思います。
自己肯定を否定したらメディアになんか出られません。
ではその両者のどっちが美人でどっちがイケてないのかというと、顔だけ比べりゃ女優のほうがまさるに決まっていますわね。いや、gingerが提唱する美人の定義は外見でなく心とライフスタイルのうんぬんなのかもしれませんが、ファッション誌たるものそこはやはり外見は重視したいところですよね。茂木さんにとっての美人とは何かわたしは知りませんが(やはりここは脳か?)
もてぎさんの文章からはどことなく(一行もそんなこと書いてないけど)ネットはだめ。他はしらんけど。みたいな印象があったので、いやあーそれはどっちも一緒じゃね?
というふうに遠くから念を送りたくなったのでした。
もうちょっと違った書き方だったとおもいますが
・ネット上に自分の複製をせっせとつくるような行為をする女性はイケてない
・ネットで自己顕示欲を満たすような女性はイケてない
・そもそも女はネットでアクティブになるべきでない
といったようなかんじの内容だったとおもいます。
たぶん、だれか特定の個人について書きたかったんだろうな。というかんじの文章で、その真意をぼかすつもりで「女」とかでかいくくりをつかっちゃったもんだから何が言いたいのかよくわからない文章になっていたのでしょうが、もしわたしの読みが当たっていたら、あーネットを軸にして知的労働に従事するコンサルとか評論家的な女性のことがこの人は嫌いなんだなあ。と思いました。
でも、メディアでアクティブになる女性のマインド、という点においては、テレビの人もネット人も、そうたいして変わんないのではないでしょうか。
テレビには昔から女優とかタレントさんというくくりで女性がいますし。
ネットとテレビの間には「自分で自分をかつぐ」「他人に自分をかつがせる」という大きな違いはあるにしても「なんか忙しそうに見える」という出力結果は対してかわんないですし、出てる本人のマインドとしても徹底的にやっているもの同士では、その根源にある「私は認められるに足る人間である」という絶対的な自己肯定の力に差はないと思います。
自己肯定を否定したらメディアになんか出られません。
ではその両者のどっちが美人でどっちがイケてないのかというと、顔だけ比べりゃ女優のほうがまさるに決まっていますわね。いや、gingerが提唱する美人の定義は外見でなく心とライフスタイルのうんぬんなのかもしれませんが、ファッション誌たるものそこはやはり外見は重視したいところですよね。茂木さんにとっての美人とは何かわたしは知りませんが(やはりここは脳か?)
もてぎさんの文章からはどことなく(一行もそんなこと書いてないけど)ネットはだめ。他はしらんけど。みたいな印象があったので、いやあーそれはどっちも一緒じゃね?
というふうに遠くから念を送りたくなったのでした。
2009/07/19
エンタメ:ポケモン映画 アルセウス超克の時空へ
子供にせがまれ、はじめてポケモンの映画に行った。
劇場は開場時刻前から大混雑。小学生くらいの子はDSを持参している。来場し、かつ最新のDSソフトを持っていると「アルセウス」のポケモンをくれるんだって。さらにポケモンカードと、アーケードゲーム「ポケモンバトリオ」で使うアルセウスのパック(メダルのようなかたち)もついてくる。
さて開場。開始まで15分間延々協力企業の関連事業(仮面ライダー、シンケンジャー、ドラえもんなどなど)の宣伝が続き、最後に(DSを閉じろ)とポケモンの「ニャース」からご連絡。はい、始まりました。
で。終わりました。
ニャースがまた出てきて(DSを付けてもよい)という趣旨の連絡が出ておしまい。
公開開始直後なので筋は説明しないが、ひでー映画だった。
ストーリーの底が浅いとか、もったいぶってて冗長とか色々あるが、最も気になるポイントは「主人公を始め登場人物全員がまったく努力をしたように思われないにも関わらず、事が解決する」ところだ。
今回の映画のキーパーソンなんか、要所要所で念じるだけ。もういちど言う。念じるだけ。そんで全部片付きます。ノーリーズン、エンジョイ。
で、DS持ったがきんちょは「オレ最強のポケモンゲットした〜」と言って満足して帰ると。ポケモンゲームが主で映画は付録、と考えれば、映画としてまじめに観るのは間違っているのかもしれないが。
その後、バトリオのパックもらったせいで「どうしてもいちどやってみたい」と息子がゴネだし、駅前のおもちゃ屋へ。説明書きを読んでもさっぱりやり方がわからんわ。と思っていたらさっき映画館で後ろに座ってた小学生らが「おれわかりますよ」と。「おい、金」と母親に言いつけて100円入れたかと思うとやりだした。「ここで、押すんですよ。すげー押す押すおらおらおらおらああああ!!奇跡を起こすぜええええ!!いえーい100ごえ〜おれ最強、無敵〜〜」あ、ごめん、押すだけなの?押せば良いの?「そうですけど、オレくらいですよ。だいたい100とか超えるのって。」え?100超える条件は?「気合いっすね」え、気合い?気合い感知?
画面切替の合間にもDSを覗き込み、鬼の形相でただボタンを叩きまくる子供を見ていると、理解を超えたしくみの前に奇跡だけを信じて金をすっていくパチンコ狂いのおっさんが思い起こされ、悲しくなった。
ポケモンのルールというか、しばり的な考え方は、どうやら陰陽五行思想の木火土金水(もくかどごんすい)風な構造を取ってるようだが、なんせ大勝ちする時とか、強いアイテム(ポケモン)を手にするといった圧倒的カタルシスをもたらすイベントがぜんぶルールの外、つまりランダムで、自動的に与えられるしくみになっているために、ガキどもは「奇跡」とか「気合い」とか「運」を信じてゲームに向うことになっとる。
待てやコラ。これ作った奴、賭博黙示録カイジを1章から2章まで通読しろ。
勝ち方がはっきりしないゲームは子供にとって害だろう。
もうおもちゃ屋のわきで静かにぶちキレた私はその場をあとにした。
歩きながら息子に、勝ち方がわからないゲームはするな。奇跡はそう簡単に起こらん。まして、ボタン連射で奇跡が起こると信じるヤツはバカだ。こんなことに100円なんか使うな。と言い渡した。息子は「母親は子供の喜ぶことをしてくれるもんじゃないの?変な母親。」と言い返したが上等だ。子供の銭を巻き上げる商売だってべつに法に触れてなければまっとうである。だがしかし、支払った対価として心になあーんの豊かさも与えず、教えもなく、物欲を煽るだけ。かあさんそんなポケモンなんか、だいきらいよ。
まだディズニーのほうがうまくできてるわい。
劇場は開場時刻前から大混雑。小学生くらいの子はDSを持参している。来場し、かつ最新のDSソフトを持っていると「アルセウス」のポケモンをくれるんだって。さらにポケモンカードと、アーケードゲーム「ポケモンバトリオ」で使うアルセウスのパック(メダルのようなかたち)もついてくる。
さて開場。開始まで15分間延々協力企業の関連事業(仮面ライダー、シンケンジャー、ドラえもんなどなど)の宣伝が続き、最後に(DSを閉じろ)とポケモンの「ニャース」からご連絡。はい、始まりました。
で。終わりました。
ニャースがまた出てきて(DSを付けてもよい)という趣旨の連絡が出ておしまい。
公開開始直後なので筋は説明しないが、ひでー映画だった。
ストーリーの底が浅いとか、もったいぶってて冗長とか色々あるが、最も気になるポイントは「主人公を始め登場人物全員がまったく努力をしたように思われないにも関わらず、事が解決する」ところだ。
今回の映画のキーパーソンなんか、要所要所で念じるだけ。もういちど言う。念じるだけ。そんで全部片付きます。ノーリーズン、エンジョイ。
で、DS持ったがきんちょは「オレ最強のポケモンゲットした〜」と言って満足して帰ると。ポケモンゲームが主で映画は付録、と考えれば、映画としてまじめに観るのは間違っているのかもしれないが。
その後、バトリオのパックもらったせいで「どうしてもいちどやってみたい」と息子がゴネだし、駅前のおもちゃ屋へ。説明書きを読んでもさっぱりやり方がわからんわ。と思っていたらさっき映画館で後ろに座ってた小学生らが「おれわかりますよ」と。「おい、金」と母親に言いつけて100円入れたかと思うとやりだした。「ここで、押すんですよ。すげー押す押すおらおらおらおらああああ!!奇跡を起こすぜええええ!!いえーい100ごえ〜おれ最強、無敵〜〜」あ、ごめん、押すだけなの?押せば良いの?「そうですけど、オレくらいですよ。だいたい100とか超えるのって。」え?100超える条件は?「気合いっすね」え、気合い?気合い感知?
画面切替の合間にもDSを覗き込み、鬼の形相でただボタンを叩きまくる子供を見ていると、理解を超えたしくみの前に奇跡だけを信じて金をすっていくパチンコ狂いのおっさんが思い起こされ、悲しくなった。
ポケモンのルールというか、しばり的な考え方は、どうやら陰陽五行思想の木火土金水(もくかどごんすい)風な構造を取ってるようだが、なんせ大勝ちする時とか、強いアイテム(ポケモン)を手にするといった圧倒的カタルシスをもたらすイベントがぜんぶルールの外、つまりランダムで、自動的に与えられるしくみになっているために、ガキどもは「奇跡」とか「気合い」とか「運」を信じてゲームに向うことになっとる。
待てやコラ。これ作った奴、賭博黙示録カイジを1章から2章まで通読しろ。
勝ち方がはっきりしないゲームは子供にとって害だろう。
もうおもちゃ屋のわきで静かにぶちキレた私はその場をあとにした。
歩きながら息子に、勝ち方がわからないゲームはするな。奇跡はそう簡単に起こらん。まして、ボタン連射で奇跡が起こると信じるヤツはバカだ。こんなことに100円なんか使うな。と言い渡した。息子は「母親は子供の喜ぶことをしてくれるもんじゃないの?変な母親。」と言い返したが上等だ。子供の銭を巻き上げる商売だってべつに法に触れてなければまっとうである。だがしかし、支払った対価として心になあーんの豊かさも与えず、教えもなく、物欲を煽るだけ。かあさんそんなポケモンなんか、だいきらいよ。
まだディズニーのほうがうまくできてるわい。
2009/06/13
エスクァイア休刊、Android、iPhone
エスクァイア ジャパンが7月号をもって休刊しますね。
学生時代「これが普通にかえるようになったら文化人」と思っていた雑誌なので不思議な気持ちです。
で、その最後の号をめくっていてハタと手がとまりました。お前、こんな所に居たのか。と。そう、最後を飾ってAndroid君が紙面を飾っているではありませんか。広告業界の重鎮、マーク・タッツェルさんによる「進化する広告」という最後の連載記事に、やつがいました。
タッツェルさんは、スマートフォンとう携帯電話は好きなアプリを入れ放題なこと、アプリの需要が米国内ではすごいこと、で、アプリで広告をしている企業がすでに居ること、しかも、アプリを買うのはコンシューマであること、に、とてつもない時代の移り変わりを感じている。と記事の中で述べています。つまり、従来は企業が金を払って広告をしていたものが、コンシューマが金を払って広告を買っている。と。
そのメインステージのでかいのか、iPhoneとAndroidだ。というわけで、Android君がiPhoneのとなりでのんきな顔をしていたのでした。
事例はiPhoneむけに有償で提供されているiFood Assistantというクラフトのアプリケーション。米Kraft FoodsがApp Storeで$0.99で売ってます。レシピの紹介や作り方の手順を説明するビデオなんかが見られるアプリなんだそうですが、もちろん食材はKraftの商品が中心です。
タッツェルさんの記事は「これ以上便利になりようがない!」というふうに終わってます。普通に読むと、皮肉っぽい感じに読めます。広告にクリエーティブもくそもなく、こんなちっこい画面で便利であれば金を払うってアホじゃないのか?というニュアンスが少しだけ感じられる部分があるのですが、これはなんとなく日本語に翻訳する過程で加わったような気がしないでもない。矢野の直感的にはタッツェルさんは普通に「おもしれー」と転換期を楽しんでいるように思えました。
そういう部分をかんぐらないと本当のとこが見えないというのも雑誌の面白いところではあるのですがね。
ところでAndroid君と同じくらい「オヤ」と思ったのがミッキー・ロークです。彼の新作「レスラー」が本日より公開スタート。トリプルH(Hunter Hearst Helmsley)みたいな風貌を紙面で見ました。なんか「ビヨンド・ザ・マット」世代の自分としては、“ザ・スネーク”ジェイク・ロバーツが現実なので今更何をという気もしないでもないです。しかしそれと同時にミッキー・ローク世代でもありますから、それはそれとしてリアルだな。という気持ちもあるのです。そのような感想をふまえ、戦いに破れたものには行き場もない。しかし過去リングで勝ち取った充実感は残りの生を生き切るに十分なのだという精神を、最後の最後、ミッキー・ロークの「レスラー」に紙面をがっつり割いたエスクァイアには感じました。私も最後の時はこのような余裕をみせたいものです。
学生時代「これが普通にかえるようになったら文化人」と思っていた雑誌なので不思議な気持ちです。
で、その最後の号をめくっていてハタと手がとまりました。お前、こんな所に居たのか。と。そう、最後を飾ってAndroid君が紙面を飾っているではありませんか。広告業界の重鎮、マーク・タッツェルさんによる「進化する広告」という最後の連載記事に、やつがいました。
タッツェルさんは、スマートフォンとう携帯電話は好きなアプリを入れ放題なこと、アプリの需要が米国内ではすごいこと、で、アプリで広告をしている企業がすでに居ること、しかも、アプリを買うのはコンシューマであること、に、とてつもない時代の移り変わりを感じている。と記事の中で述べています。つまり、従来は企業が金を払って広告をしていたものが、コンシューマが金を払って広告を買っている。と。
そのメインステージのでかいのか、iPhoneとAndroidだ。というわけで、Android君がiPhoneのとなりでのんきな顔をしていたのでした。
事例はiPhoneむけに有償で提供されているiFood Assistantというクラフトのアプリケーション。米Kraft FoodsがApp Storeで$0.99で売ってます。レシピの紹介や作り方の手順を説明するビデオなんかが見られるアプリなんだそうですが、もちろん食材はKraftの商品が中心です。
タッツェルさんの記事は「これ以上便利になりようがない!」というふうに終わってます。普通に読むと、皮肉っぽい感じに読めます。広告にクリエーティブもくそもなく、こんなちっこい画面で便利であれば金を払うってアホじゃないのか?というニュアンスが少しだけ感じられる部分があるのですが、これはなんとなく日本語に翻訳する過程で加わったような気がしないでもない。矢野の直感的にはタッツェルさんは普通に「おもしれー」と転換期を楽しんでいるように思えました。
そういう部分をかんぐらないと本当のとこが見えないというのも雑誌の面白いところではあるのですがね。
ところでAndroid君と同じくらい「オヤ」と思ったのがミッキー・ロークです。彼の新作「レスラー」が本日より公開スタート。トリプルH(Hunter Hearst Helmsley)みたいな風貌を紙面で見ました。なんか「ビヨンド・ザ・マット」世代の自分としては、“ザ・スネーク”ジェイク・ロバーツが現実なので今更何をという気もしないでもないです。しかしそれと同時にミッキー・ローク世代でもありますから、それはそれとしてリアルだな。という気持ちもあるのです。そのような感想をふまえ、戦いに破れたものには行き場もない。しかし過去リングで勝ち取った充実感は残りの生を生き切るに十分なのだという精神を、最後の最後、ミッキー・ロークの「レスラー」に紙面をがっつり割いたエスクァイアには感じました。私も最後の時はこのような余裕をみせたいものです。
2009/05/15
エンターテインメント:AKB48
6月4日発売の「日経エンタテインメント!」はアイドル特集です。
矢野はAKB48担当させていただいてます。
今日は前田敦子様、小嶋陽菜にゃん、大島優子さん、高橋みなみ氏の4名で座談会しました。
いやー。今日まで母さん誤解してました。
これまでAKB48のことを、マニア受けするしろうとの寄せ集めだと思ってました。
ファンのみなさま、ならびにメンバーのみなさま、申し訳ありませんでした。
全然違いました。
美しきマッチョなエンターテイナーでした。
続きは6月4日のエンタ!で!!!
彼らはすげーっす。おたのしみに!!
矢野はAKB48担当させていただいてます。
今日は前田敦子様、小嶋陽菜にゃん、大島優子さん、高橋みなみ氏の4名で座談会しました。
いやー。今日まで母さん誤解してました。
これまでAKB48のことを、マニア受けするしろうとの寄せ集めだと思ってました。
ファンのみなさま、ならびにメンバーのみなさま、申し訳ありませんでした。
全然違いました。
美しきマッチョなエンターテイナーでした。
続きは6月4日のエンタ!で!!!
彼らはすげーっす。おたのしみに!!
2009/04/27
エンターテイメント:R2C2ゲネプロ(ネタバレなし)
昨夜は「大パルコ人 メカロックオペラ R2C2」の公開通し稽古(ゲネプロ)を鑑賞。
宮藤官九郎演出、脚本作品。という前知識程度しかない状態でパルコ劇場へ。
ロックオペラでした。
これは公式サイトにもそう書いてあるんでネタバレではありません(最初正式なタイトルさえよく知らなかったのでロックオペラであることすらしりませんでした)。
ドリアン助川の金髪先生とか通しで見てた人は「ああ、あれな。」という程度の、ちょうどいいレベルとボリューム感でロックの小ネタが詰まってます。みうらじゅんの著作物などを参考にしてもいいですね。
かなり真摯にロックというモチーフに取組んだ作品なんだと思うのですが、大人計画のファンと音楽(ロック)ファンは、クロスする個所があるのでしょうか?演劇界に詳しくない状態で言ってますが、基本的にロックオペラってロック好きが見るものですよね。
なんでこんなことを考えるのかというと、ゲネプロ見て音楽好きも見に来るとけっこう面白い内容ではないかなあ。と感じつつも、演劇ってパプリシティが出るころには実質「終わってる」表現形式だとも痛感したわけですよ。コンシューマーにとっては。つまり、日頃音楽コミュニティにいる人間が「へーこんな芝居があるんだ」と気付いた頃にはチケットが取れない。
ずーっと大人計画なり、芝居なりのコミュニティに属してないと、おいそれと鑑賞できないわけです。今回、そのコミュニティに属していてもチケット取れなかった人もいると聞きます。また、音楽と違って芝居ってパッケージ化してからの再現性が著しく低い表現じゃないですか。だから見るしかないけどもう遅いと。
多分これは制作側も承知の上で、音楽的要素と演劇的要素のバランス配分などをはじめ、いろいろ細かい調整があったろうと推察します。
それはさておき、私は、ある秘密を知ってしまいましたよ。
宮藤官九郎は、ギターがうまかった。
「役者としては」というエクスキューズを外してもいいんじゃないかなと。
観賞後スタッフの人に宮藤さん、ギターうまいねと言ってみたら「あたりまえじゃないですか〜グループ魂ってバンドやってますから〜、知らないんスか〜」と空気読めない間抜け豚野郎的な扱いを受けた私ですが、メジャーデビューしてる=ギターうまいとは厳密な意味で、限りません。
あのギターの上手さは今後の宮藤官九郎にとってどう作用するのでしょう。
というか、あれを今後どうしたいのか、知りたいです。
そもそも楽曲がクソならロックオペラとして体裁が整いませんから、演出家として命がけで演奏力に磨きをかけたのかもしれませんが。
アコースティックが特によかった。
芝居に関しては過去の宮藤作品を見た経験がなく差分が取れないのでよくわかりませんが、宮藤は立派なギタリストである。ということを確認した次第です。
宮藤がギターと芝居の流れのバランスをどう取るか。ここはチケットが取れた方、しかと見届けて下さい。また、音楽に流されない片桐はいりの岩のような演技も必見です。あ、ロックつながりですね。
今日から本番です。
宮藤官九郎演出、脚本作品。という前知識程度しかない状態でパルコ劇場へ。
ロックオペラでした。
これは公式サイトにもそう書いてあるんでネタバレではありません(最初正式なタイトルさえよく知らなかったのでロックオペラであることすらしりませんでした)。
ドリアン助川の金髪先生とか通しで見てた人は「ああ、あれな。」という程度の、ちょうどいいレベルとボリューム感でロックの小ネタが詰まってます。みうらじゅんの著作物などを参考にしてもいいですね。
かなり真摯にロックというモチーフに取組んだ作品なんだと思うのですが、大人計画のファンと音楽(ロック)ファンは、クロスする個所があるのでしょうか?演劇界に詳しくない状態で言ってますが、基本的にロックオペラってロック好きが見るものですよね。
なんでこんなことを考えるのかというと、ゲネプロ見て音楽好きも見に来るとけっこう面白い内容ではないかなあ。と感じつつも、演劇ってパプリシティが出るころには実質「終わってる」表現形式だとも痛感したわけですよ。コンシューマーにとっては。つまり、日頃音楽コミュニティにいる人間が「へーこんな芝居があるんだ」と気付いた頃にはチケットが取れない。
ずーっと大人計画なり、芝居なりのコミュニティに属してないと、おいそれと鑑賞できないわけです。今回、そのコミュニティに属していてもチケット取れなかった人もいると聞きます。また、音楽と違って芝居ってパッケージ化してからの再現性が著しく低い表現じゃないですか。だから見るしかないけどもう遅いと。
多分これは制作側も承知の上で、音楽的要素と演劇的要素のバランス配分などをはじめ、いろいろ細かい調整があったろうと推察します。
それはさておき、私は、ある秘密を知ってしまいましたよ。
宮藤官九郎は、ギターがうまかった。
「役者としては」というエクスキューズを外してもいいんじゃないかなと。
観賞後スタッフの人に宮藤さん、ギターうまいねと言ってみたら「あたりまえじゃないですか〜グループ魂ってバンドやってますから〜、知らないんスか〜」と空気読めない間抜け豚野郎的な扱いを受けた私ですが、メジャーデビューしてる=ギターうまいとは厳密な意味で、限りません。
あのギターの上手さは今後の宮藤官九郎にとってどう作用するのでしょう。
というか、あれを今後どうしたいのか、知りたいです。
そもそも楽曲がクソならロックオペラとして体裁が整いませんから、演出家として命がけで演奏力に磨きをかけたのかもしれませんが。
アコースティックが特によかった。
芝居に関しては過去の宮藤作品を見た経験がなく差分が取れないのでよくわかりませんが、宮藤は立派なギタリストである。ということを確認した次第です。
宮藤がギターと芝居の流れのバランスをどう取るか。ここはチケットが取れた方、しかと見届けて下さい。また、音楽に流されない片桐はいりの岩のような演技も必見です。あ、ロックつながりですね。
今日から本番です。
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