2014/08/10

自分自身を変えずに世界を変えようとする者は政治を司る。 自分自身を変えようとする者は芸術に携わる。

映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキー代表作「エル・トポ(もぐら)」2010年リリースのデジタルリマスター版観た。画家でもあるアレハンドロの独自の色彩感覚が満喫できる美しさです。デジタル技術すばらしい。

あらすじはあっちこっちに書いてるのでそちらで
で、いつも思うんだけど「カルト映画」っていう分類って必要かい?私はどうも映画マニアが映画を語る権利を守ろうとしてる感がして嫌いです。あるいは「正常なもの」と「異常、逸脱したもの」といった区別につながってる気がする。わざわざ警戒させようとしてないか?エル・トポは万人が解釈可能な普遍的な美と真理のある作品ですよ。

カルトの定義は暴力やセックス、冒涜など文化的なタブーを破る表現が用いられていることのように説明されます(wikipedia)。興行的成功が求められる作品は表現が制限される現実があるので、そのカウンターとして明示的に分類する必然性は理解できるのですが、特に映画をビジネスとしてとらえる必要がない立場からすると、分けることで視聴機会を失ってる人もいる気がして不満です。

だいたい隣人愛に溢れ思慮深く、弱いものに手を差し伸べたりする正義漢を「人間」の理想として描いてるのを観て「そうそうそれそれ。それがやっぱり理想よね。自戒を込めて。」なんて不健康な話だと私は思ってます。
もしそんなアホみたいな価値観がブロックバスター的映画によってまんべんなく世界に額面通り受け入れられているとしたら、他人の国を爆撃したり自衛権を増強したり食料を奪い合ったり子供や老人が虐待されるなんてことはないでしょう。

逆にそういう「人間はきっとすばらしい」という妄想を良いトシして抱き続けているがゆえに本来の人間の持つ卑劣さを認めないせいで、自分の精神をそこから逃がすための具体的な努力を怠りまくって調子に乗ってんじゃないのか。
自分以外のまわりの人間が。じゃなくて自分自身がだ。

アレハンドロのファンサイトかな?で、彼にインタビューした記事が掲載されていて、その一節に

自分自身を変えずに世界を変えようとする者は政治を司る。
自分自身を変えようとする者は芸術に携わる。

という発言があります。

引用
アレハンドロ・ホドロフスキー 日本語オフィシャルサイト
インタヴュー : もちしゃ・えるがと。
2007年11月7日、パリ。

全く、ご本人の現状認識をそのままに、エル・トポの主人公はクソみたいな設定のなかで最後まで凄く美しい。上っ面の善悪識別欲求にまみれて美を感じる器官が鈍ったら、定期的に観ます。