2008/11/06

小室哲哉と佐野元春のあいだ

このことを考えて昨夜はほとんど眠れなかったのだが、旦那は「あんた、ファンやったからなあー。ぐひっ。ぐひひ(厨房時代の矢野の感性を蔑む音)。」という。
そうね。正直小室氏の顔、好きだったからね。あのころ写真集も買いましたね。
80年代を経たアーティストに起こったいろんなことの大きいのとして小室氏の顛末を捉えている私だが、今、アーティストで居続けている人とそうでない人の差はどこにあるんだといういろんな仮説が頭で暴れているのである。
当然「持てる音楽的才能の差でしょうが」という一般論も聞こえてきそうだが、もちょっと違う視点で、気持ちの有り様として「両者の差とは何か」と考えてしまうのだ。
そこでいろいろと調べているうちに見つけた記事

ネタフル「佐野元春ブロガーミーティング」レポート

を読んで、む、むーん。とうなってしまった。
記事にはメジャーレーベルを離れた経緯と現在のリリース体制が、本人発で解説してある。
佐野元春をご存知の人は彼が「いかにファンを喜ばせるか」という課題に対して継続的に努力を重ねた歴史を知っていると思う。また、2004年にリリースした復活アルバムのTHE SUNを聴いた人は、作り手として研鑽を積みながら今を生きている佐野元春のすごさにびっくりしたはずである。
今いろんな所に書いてある「時代を読み切れなかった小室」とかいう抽象的ないいまわしなぞどーでもいい。そもそも時代を読み切るなんて誰にもできるはずがない。そうでなく。夢枕獏言うところの「正しい答えには正しい問いが必要なのだ」というやつ。こっちの問題だ。
小室氏はどうしてファンを喜ばせることを第一に考えなかったかな。
そう思っているうちに
支持してくれる人に満足してもらうための努力にはなにがあるのかな。
という考えがぷっと出てきた。
例えば自分は今書籍や原稿を執筆したり、デザインをしていろんな人と繋がっているわけだが、ただ「つくるしくみ」の1パーツとしてのほほんとシステムにのっかってていいのかね?と将来を案じている。書いたり作ったりしているうちはそこまでたいして考えず、面白くしよう、喜ばれるようにがんばろう。ということだけであがいているのだが。小室氏の場合、目的がずれたまんまシステムに乗っかった状態だったので落っこちてしまったという気がする。
ものづくりする人間は制作とディストリビューションという役割分担を今後、どうやってやっていったらいいか。佐野元春が行動で示したことがいまさらながらすごーく自分ごととしてせまってくるのであった。
書籍の販売に関してシステムにのっかるしか手段が思いつかない私であるが、とりあえず伝える努力、人とつながる努力をしつつ、本末転倒せぬよう仕事の中身を充実させよう。と肝に命じている。