2017/07/29

さよならヌーちゃん

今日は18年間飼っていた猫と最後の一日だった。
おとといの木曜日夜から歩きかたがおかしくなり、金曜日には彼女が我が子のようにかわいがってきた息子(私の長男)のベッドの下で寝返りは打つものの起きて歩くことができない様子だった。
そのような金曜の朝私は朝食の準備をしながら確かに彼女が階段を軽快に登っていつものように息子が朝勉強をするリビングに来るのを見た。
それは幻覚というか実態ではなかったが、確かに「来たな」と思った。

彼女は朝勉強する息子のノートの上に寝そべるのが日課で、息子は彼女の体を避けながら勉強をしていた。彼女のしっぽにさわりながら勉強をするのが息子も好きだったし、彼女もそれが好きだった。
その幻覚というか、来たな。という感じを得て私は彼女がもう意識で体を動かすことができないんだなあ。と確信した。気持ちだけで来ている。

すぐに今日のスケジュールを確認して夕方以降に予定が入らないようにした。もう土曜の朝にには生きていないだろう。
金曜から泊りがけで外出する夫には、土曜日すぐに焼いてしまうことを伝えた。
出社して会議ややるべきことをやり、夕方早めの時間に会社を出た。

家に戻ると息子のベッドの下で彼女は肩で息をしていた。ずいぶんおしっこが出てしまい、体じゅうおしっこまみれになっていた。バスルームの前にある彼女のトイレのまわりにトイレシートとバスタオルをしきつめて、そこに抱えて連れて行った。濡れタオルでよくよく体じゅうを拭いてやり、そのあと息子の部屋を掃除して様子をみる。七転八倒しながらどうしても脱衣所の隅に行きたがるので、隠れたいんだな、と思い大きめの段ボール箱で隠れ家を作ってやった。屋根と壁を得てだいぶ落ち着いた。横になって肩で息をしている。

部活から帰って来た息子はしばらく床に寝そべり段ボールに顔を突っ込んでいた。
その日はおすしを頼むことにして、保育園の娘を迎えに行き、できるだけ静かに過ごさせてやろうと脱衣所は電気を消してまだ小さい娘が乱入しないように気をつけながら過ごした。
早めに家全体を暗くして落ち着かせてあげようということになり、夜9時にはめいめいの部屋に収まって布団に入った。息子にはこれが最後で、朝になったら生きていないのでよくお別れを言うように促した。
息子は寂しいせいでかやたらべらべらとよく喋り、なかなか彼女から離れようとしなかった。

家中の電気を消して娘も眠ったころ、箱の中の様子を見た。舌もしまえなくなっていて昏睡しているようだった。
わたしも横になって、眠ろうとがんばっていた。
すると、ととととととと。と、いつもの足音が聞こえた。
気持ちだけでここまできたか。と顔を上げたらどうやって歩いて来たのかケロっとした彼女が寝室のドアの前に立っていた。
そのままてくてくとわたしの枕元まで来て、そのままパタッと横になった。
しばらく頭を撫でていたら、喉を鳴らしているような音が聞こえた。
音が聞こえなくなったころ、耳が冷たくなってきたので深夜だったが夫に旅立ったようだとメッセージを送った。
そのあと2時間くらいうとうとしてから触れるとだいぶ硬くなってしまった。しっぽがずいぶん適当な形で倒れたので、このままだと箱に入らなくなってしまう。
さっき屋根にした箱を今度は棺に作り変えて、硬くなり始めた体をちょっとずつ丸めていれた。

彼女が食べ残したご飯や床に敷いたペットシーツを捨てて、床をきれいに拭いた。24時間対応のペット霊園に電話をし、午前の火葬を予約してから彼女の箱を自分の布団の横に置いて少し寝る努力をした。
目をつぶると、リビングで確かに彼女が走り回る音が聞こえる。
ソファで爪を研ぐ音さえしている。
そんな音を聞きながら、ああ、彼女も死んだことに慣れておらず、私も彼女がいないことに慣れていないんだなあ。と笑った。

明るくなってきて、息子が自室から起き出してきた。彼女がもう生きていないことを伝えると、怒ったような顔をしていっこうに会いに来ない。
それから火葬場に行く直前まで、まったく顔を見ようともしなかったが、焼けた骨は一生懸命拾っていた。
帰って落ち着いてからキャットタワーなどを片付けようかともおもったが、なんだか疲れたので何もしなかった。
猫トイレは日曜日の昼にでも片付けよう。
今日だけ、死んだことに慣れていない彼女が最後に砂をかく音を聞こう。








2017/05/01

「性格」が個人の生産性を評価する新しいものさしになるらしい

春はちょくちょく中学生の保護者会があって学年主任の先生のお話などを聞く機会があります。最近かなりの頻度で先生が「非認知能力育成の重要性」ということをおっしゃっていて、聞きなれない用語のわりにポンポンいうのでよっぽど大事な用語なんだろう。と思い、調べました。

非認知能力とは?

知能以外の能力のこと。端的にいうとパーソナリティ特性(性格)で測る
※「性格で測定する非認知能力」が状況により変化するものでなく、個人の行動を決定する測定可能で安定的な人間の性質であるという合意がごく最近形成されるようになった。個人レベルの労働生産性に与える影響の研究分野でよく利用される。

ほうほう。

ということは非認知能力を知るためには認知能力も正確に把握する必要がありそうです。

認知能力とは

理解、判断、論理といった知識や技能を指す言葉。

なるほど。

具体的な例でいうと...

  • 絵がうまい
  • 数字の計算が早い
  • プログラムできる
  • 英語が喋れる

こういう技能は「認知能力」として質が測れるようです。

では、なぜ非認知能力が注目されているのかを調べました。

理由:従来の個人生産性測定基準の欠損を埋める要素だと期待されているから

伝統的経済学においては個人の年齢、教育年数、経歴、両親の経済力などから個人の生産性を図ろうとしてきたそうです。しかしこれらの変数は賃金変動の15~35%程度しか説明できないと言われているとか。
また、2020年を目標に文部科学省が進めている大学入試改革(高大接続改革)では、生産年齢人口の急減や社会の変化に対応するため、新しい時代に必要となる資質や能力を「真の学ぶ力」(「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」の学力の三要素から構成される力)と定義しています。判断力や態度の部分を担う能力が「非認知能力」ですね。

次に、非認知能力を測定する手法を調べました。

非認知能力は、性格5因子という指標を使って測定するそうです。

性格5因子

  1. 経験の開放性(Openness to Experiences)
    新しい審美的・文化的・知的な経験を追い求める傾向を判定
  2. 勤勉性(Conscientiousness)
    向上心があり,努力家。中途半端を好まず,徹底的にするタイプを判定
  3. 外向性(Extraversion)
    心的エネルギーが外に向いているかを判定。コミュニケーション能力が高く,積極的に人と接することが出来る。気持ちが外に向いている
  4. 協調性(Agreeableness)
    周囲と上手くチームを組んで活動できるタイプを判定。周りの人に合わせて,人間関係を上手くやっていけるタイプ
  5. 情緒安定性( Emotional Stability)
    精神的にバランスが安定しているかを判定。反対の神経質的(Neuroticism)というのは,情緒的に不安定で精神的な苦痛に耐えてきている慢性的状態
実際はこの5因子に別の指標を組み合わせた数式モデルにより測定できるそうです。
すでにモデルを運用し、個人の将来の賃金を試算する試みもあるとか。面白いですね。

ポイントは

こういう人材がビジネスにおいては評価されるんだろうなあ。みたいに感覚で評価していたことが「算出」できるようになってきたということでしょう。人工知能がそのうち人材評価をやりはじめる日も近いです。
また、同じパラメータでも国や性差により評価結果は異なるらしいです。
例えば、協調性が高い人材は日本で出世確立高いが、米国では逆に低くなるみたいな。
その一方で、女性はとくに国によらず「怒りっぽい人」の評価が低くなる傾向にあるとか。こういうことは俯瞰(へえ〜〜みたいな)して把握し「まあ自分も女だからわかるけど、肉体的な都合により精神安定しないことはよくあるわなー。でもそれって経済市場的にはマイナス評価になっちゃうってことだから気をつけよー」という認識くらい持っておいたほうがよさそうです。

とくに、製品開発とか「作る」仕事は「スキル」だけで評価されてしかるべきだと考えがちです。でも世の中的には「パーソナリティ特性」込みで評価する流れがもう確実に来るということをはやめに自覚して、気をつけておきたいと思いました。

とはいえこれは「労働市場」という限られた世界のなかの評価であり「人間という大自然の一部である生き物の価値を測る絶対的なものさし」でもなんでもないということも合わせて意識しよう。と思いました。

出典

非認知能力が労働市場の成果に与える影響について
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2014/09/pdf/030-043.pdf

幼少期の家庭環境、非認知能力が 学歴、雇用形態、賃金に与える影響(測定数値付き)
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/14j019.pdf
※こいつは学生時代集団スポーツの部活に入っていたらプラスとか私にとっては取り返しのつかんことを書いてあるのでけっこう精神的にえぐられましたw


2017/01/04

「自分にしかできない仕事」というものは無くて、あるのは「自分に合っている仕事」だけ

あけましておめでとうございます。
新しい年が始まると「今年はこういう仕事がしたい」とか言ったほうがいいんだろうなあ。と考えたりもするが、アウトプットをどうしたいということがまるで考えつきません。
そのかわり、わりと考えるのが、アウトプットの源である自分自身及び環境の調整についてです。いまのところ以下の点について重視したいと考えています。

・今の自分が持つスキルを「職能」だと勘違いしない
周囲に求められているうちが職務を遂行する能力であり、今現在何ができるということ自体は特に重要ではない。周囲も含めて自分自身を明るく楽しく動かすことこそ本当の「仕事上有効な力」である。

・現状維持は衰退
小池百合子女史がオリンピック関連の会議上で発言していたのを報道で見てから好きな言葉。ルーティンは週次で見直すくらいの感度で「作業」の「意味」と「目的」を考え直す。

・「作業」は積極的にシェアする
家庭でも仕事場でも「誰にでもできること」は積極的に作業分担する。女親にしかできないことがあるとか、コーディングは特殊技能だとか、コピーライティングにはセンスが不可欠とか、いろいろあるけど「覚えりゃ誰にでもできる」ことは案外たくさんある。

以上です。

これまで「自分にしかできない仕事と出会う」ことが、あたかも幸せになることのように捉えていました。無責任なドラマの決め台詞を信じていたのかもしれないし、TVCMか何かで観たのかも。
しかし20年近く社会でそれなりに生きてきましたが、どうも自分にしかできない何かって、無いんですよ。それだけたいしたことをしてこなかっただけかもしれないけれど。
極論すると、自分の子どもたちですら、自分以外でも育てることはできる。
デザインの仕事だって誰が手がけるかは問題じゃない。個人の名前とかブランドで解決できるほど単純な課題など、無い気がしています。
結局、何かがうまくいくときというのは「自分に合っていること」をやっているときなんじゃないだろうか。と考えるようになりました。
私にとって、自分に合っていることのジャッジはけっこうカンタンで、

・日々自信を持って関係者と接しているか
※目を見て話せる、指示ができる、主張ができる程度の話です
・施策やデザインの「ダメな理由」ではなく「改善できる方法」を示せるか
・仕事の内容で自分自身が「わからないこと」「理解できていない点」を把握しているか

いまのところ、この3つを自問自答して判断しています。

もしこのどれかが不明瞭であれば、今のやり方を変えるか、環境が合わないと判断して転身するといった解決策を検討するでしょう。いまのところ、自分の考え方を環境に合わせて柔軟に変えていくほうが自分には合っているようです。この判断基準は仕事だけではなくいろんな側面で使っています。この判断基準が通用するのはいつまでなのかはわからないですが、今年一年はこれで行こうと思います。


2016/10/09

かあさん部長として、とことん語り合う会に参加しました

セッション中やたらうろうろする娘。
ぬいぐるみが似合う司会の蝦名晶子さんと一緒に。

10月5日NPO法人あおもりIT活用サポートセンター主催「かあさん部長ととことん語り合う会」に講師として参加しました。
IT関連の話題というよりも、もうちょっと広く「仕事と家庭の運営ってどうやって両立してる?」といった大きい課題について、参加したみなさんの知見や経験を共有しよう!といった会になりました。
冒頭の数分は私の自己紹介も兼ねて私のキャリアと家庭的な変遷についてお話しして、そのあとは質疑応答だったり私が参加者のかたに質問したりと非常にインタラクティブなやりとりができました。

参加者の年齢は幅広く、20代から50代といったかんじで人生の局面もそれぞれ。でありながらやっぱり共通している思いは「自立することの意義をみんな知っている」ということでしょうか。パートナーを得たり子供をもうけたりする以前に、自分の人生の課題は主体的に解決したい。ここからあそこまで歩く。あるいは車で行く。と、同じ感覚で。そのためには経済的に、精神的に、自立したい。自立がなければ すぐに「歩かされた」とか「車を使いたいのに使えない」という(気分)に陥りがち。足は自分のものだし、邪魔をする人などいないのにです。みなさん、より良く生きようという意思に溢れていて素敵だったなあ。

当日のようすは斎藤美佳子さんのブログで詳しく紹介していただいてます♥
「かあさん部長」矢野りんさんと3時間たっぷり語り合ってきたった
http://saitoumikako.com/blog/1005mothers.html

ところで若い世代のかたに「子供を持つことによって諦めたことは何かありますか?」という質問をいただくことがあります。長男がまだ小さくて、子育ての仕事全体が把握できていなかった頃なら色々諦めたことを羅列できたかも。下の子が小さくて手がかかるいまは、何がいつまで続いて終わるのがわかるので、いろいろ後回しにしても諦める必要はないとわかります。とはいえ諦めたといっても「あと10分寝たいなー」といった程度のことしかないです。

人によってはもっと長時間仕事に没頭したいけど子供がいるから諦めた。といったこともあるでしょう。しかし私の場合20代のころ朝から朝まで働いて「ノー・フューチャー(絶対早く死ぬタイプ)」の称号をほしいままにしていたことから子供のおかげで多少寿命が伸びたんじゃないかと思うくらいです。今は帰宅後子供らに食事をさせるのが精一杯で夕食はほとんどとらないくらいで早寝早起き。健康そのものです。
とはいえ以前の睡眠時間は4時間ていど、食事は短時間で済むコンビニ弁当中心の生活で毎日明け方までPCに向かっていたころの自分は、今のようなタイムスケジュールで生活しろと言われてもそんなの無理だと思うだろうなあ。

座談会でとても印象的だったのは、子育てがすでに終了した参加者のかたがいらっしゃったことです。フリーランスで受託制作されているかたでしたが、マイペースにご自身の時間を思う存分使っていらっしゃる様子が笑顔やしぐさににじみ出ていらっしゃる。その様子を拝見するだけでも強烈に励まされました。親の介護とか家族の都合はあいかわらず課題として手元に残るでしょうが、子育て時代よりは自己管理に多くの時間を割けるようになるだろうと想像しました。

実は私自身現在最も興味があるイシューは、歳を重ねた時に変化した体と仕事とをどうやって調和させるか?ということです。
特に40代になるとホルモンバランスの変化で感情や体調のコントロールが難しくなります。離婚騒ぎで話題になったアンジェリーナ・ジョリー、絶対ホルモンバランス悪かったよね...みたいなことがざらにあるわけです。

40代で顕著なのは
・体力の低下
・集中力の低下
・好奇心の低下
です。

よーするに意識的に運動しないと筋力がつかなくなるほど基礎代謝が悪くなってくるため、芋づる式に体力が衰えてきます。と、同時に生殖能力から開放されつつある過程でホルモンバランスも変化して、気分のムラが大きくなって集中力が低下します。気力体力ともに衰えることにより、新しいことに食いついたり、慣れない場に飛び込むために必要な好奇心が減ってくるという。もう、これらの点を日々意識しないとものを作る仕事は継続できないでしょう。
そうかー。マドンナが若い彼氏をとっかえひっかえしてるのも、エンターテイナーとしての仕事を継続するためにやむなしなのかー。なんてな。

うーん。ここで私がこういう極端な例について思いを馳せちゃうのは、やっぱり東京というそれなりに競争が激しい場所に住んでいて、自然と武装モードで物事を考えがちだからだろうか。
と、いうのも今回青森で凄く感じたことに、青森という地域には「助け合いの空気」みたいなものが自然にあって、あなたができないときは私がやろう。私ができないときはたのんだぞ。という見えざる網のようなものがそこらじゅうにあるので、ただ座っているだけでもすごい気楽な感じになれるような、感覚がありました。

座談会で「産休中にヒマで書籍1冊書いた」と話しましたが、そう言いながらも内心私は「バカじゃないの。ゆっくり子供みてればいいのに。」という気分にもなってました。それも、青森の独特な、ふわっとした助け合いの空気にほだされてたからなんだろうなあ。と思います。
なので、なんかそういう場で、毎日カツカツと余裕なく過ごすさまを披露するのは、正直ちょっと恥ずかしかったです。

色々と自分自身の身の振り方を見つめる良い機会をいただきました。
旅館や空港でおじいちゃま、おばあちゃま、お店のかたにうんと優しくしていただき、親子ともども青森にすっかり魅了されて帰りました。また遊びに行きます!ありがとうございました。

2016/09/20

中国人と働くことの反省点

ごめんよチームメイト。
と、いうことで、5年目の反省点です。

私の勤務先や仕事するチームには中国人がたくさんいるんです。
私は中国語が話せないので日本語が喋れる中国人と仕事をしています。

外国語を母国語とするチームメイトと、母国語で仕事をするという点について、反省点が多いにあります。

つねひごろ難しい言い回しを使わないようにとか、新しい言葉(時事的なたとえとか)を使わないようにしたり、短いセンテンスを使うように気をつけているつもりです。
でも、そういう配慮以前にできてなかったことがあります。

と、あるとき。本来は会議をマネージするはずの立場のチームメイト(中国人)があんまり発言せず、わたしはすごくイライラしていました。
何をどうしたいのか、会議の方向性も不明確になるし、何しろ、何を考えているのかわかりにくい。
で、私が安易に到達した結論は

日本語が下手

でした。

しかし、そのことを周囲の同僚(中国人)に愚痴ったところ帰ってきた答えが

「あいつはプロジェクトの責任者になったのが初めてだし、そのうえもともと自分の考えをみんなの前で表明するのが苦手」

でした。

がーーーーーーん。
そうだったのか!!!!!!

何が言いたいのかというと、そもそも、外国語を母国語とする人を評価するうえでは結局自分がそうしていたように「言語の流暢さ」という要素が立ちはだかるののが現実であるということです。

そして始末の悪いことに、自分自身では自分自身や他者の能力を、言語の違いを超越して評価されるべきであると思っていたことです。

つまり、私自身は他者のことを自分が理解できる言語を満足に使えるかどうかを最大の評価点としないんだと思い込みながら、結局相手の能力やパーソナリティは言語を通じてしか評価できないというクソっぷり。

できないことをできることだと勘違いして、しかも他人をそのものさしで測るという愚鈍ぶり。ガイジンに対する見事なまでのフィルタリング。

もうね。最悪。ただのバカ。

じゃあそもそも言語に精通していない者同士が仕事をするというのは無理なんじゃないのか。
と、結論付けるのは簡単なのですが、それは嫌だし、もっと頑張りたいです。
と、いうことで、とりあえず改善の一歩として私は

もっと真剣にパーソナリティを見る。
ということを実践したいと思います。
だってどうしても、海の向こうの人々と私はこれからも、仕事をしなければ、つまらない から。いろんな「違い」を教えてくれる人とずっと仕事をしていたいから。
なのになあ。


2016/07/01

勝手にしなさい

先日子供が熱を出したので明るいうちに家に帰ろうと歩いていたんです。
そのときひさしぶりにききました。「もう、勝手にしなさい」を。

例えば、職場で自分ではどうにもならない問題が発生したとして、それでも責任を感じながら、保育園のお迎えの時間がせまり、お迎えに向かいながらもそのことが気になって、そわそわイライラしていることを子供に悟られ、帰りに悟った子供がかまってほしくなり、自転車の子供イスから勝手に降り、走り回り、さらにいつもは欲しくもない自動販売機の前で、ほしいほしいといって泣きながら飛び跳ねて、もう遅いから行こう。かえろう。さあ、おうちでもっといいものあるから。と言っても聞かず、急に手を振り払って走りだしたと思ったら、いままで苦労して上がってきた坂を走って下って行ったりして、そんな時、「もう勝手にしなさい!!!!!」って言います。

私も今までに自分の子供に何度か勝手にしなさいと言いました。
で、そのうちの1回で、ほんとに息子の野郎が勝手にし、発見するまで1時間かかったことが有りました。
その時思ったのが

毎日のことで、でも本当にいろいろあって、で、ほとほとに疲れて、本当に疲れて言った
「もう勝手にしなさい」
で、子供に大怪我をさせたり、最悪の場合、取り返しの付かないことになったりした人は、いるだろう。ということです。

で、私はそれ以来、私の周囲で「もう勝手にしなさい!」を聴いた時は、勝手にしてる子供を全力でとっ捕まえることにしてます。お母さんを守るために。

言いたいよね。勝手にしなさい!!!って。
でも、そんなついうっかりいったことの責任をお母さんだけが取らなきゃいけないのはなんだかやだーーーーーって私は思っていたから、自分の身の回りでそれを言わなきゃいけなくなった人は、自分のちからで守れたらいいなあと思っています。




2016/06/12

The Revenant イニャリトゥ、シャガール

「The Revenant(邦題:レヴェナント 蘇りし者」はディカプリオがはじめてアカデミー主演男優賞を獲得した作品ということで話題になりました。


西部開拓時代に毛皮貿易商人に雇われた伝説のハンター、ヒュー・グラスの実話を元に作った話だそうで、熊に襲われ大怪我を追いながら300キロ歩いて生還。という伝説の骨子は過去何度も物語化されています。
本作はその筋に、ネイティブアメリカンの妻を毛皮を巡る商人と部族の抗争のなかで失い、さらに息子も自身の旅の中で仲間のハンターに殺害されるというストーリーを加えた復讐劇です。
極寒の荒野のなか自然光を使った撮影をしたそうで、北海道の雪の中で育った私の目にも、真冬の太陽が傾いて、乾いた空気の中容赦なく気温が下がっていくのが見えるくらいの、肉体に直接うったえるような映像になっていました。

イニャリトゥ作品は「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」と本作の2作しか観たことがなくて、凝った撮影技法とか、主人公のおかれたシチュエーションには共通したところがあると思います。

淡々と生きているつもりでも、世界の秩序はどんどん変わっていく。古い秩序と新しい秩序の境目のところでどちらの秩序も超越する主人公。
たかが人間の作った、経年劣化する秩序からの超越。それがイニャリトゥのテーマかどうかは知らないですが、私にはそういうふうに見えます。

バードマンの主人公リーガンは「ハリウッドのいわゆるブロックバスター作品」という(大きい物語)に君臨する「セレブ俳優」中心の秩序が「ソーシャルメディア」という(寄せ集めの物語)を構成する「普通の人たち」に食い荒らされる。という状況に翻弄されます。

レヴェナントの主人公グラスは、自然の秩序に従って暮らす人間(ネイティブアメリカン)が、資本の秩序に従属して暮らす人間(ヨーロッパ系移民)に食い荒らされるという時代に、もみくちゃにされます。生きる意味だと思っていた家族も虫けらのように殺されて、仲間もどんどん死んでいきます。

映画のなかでなく現実であってもこの先はまた、国ごとの資本が作った秩序が壊れていって、より大きくて特定の国に立脚しない組織が新しい秩序を作るような可能性がでてきていますから、ずっとこうした変化は続くんでしょう。

When there is a storm. And you stand in front of a tree. If you look at its branches, you swear it will fall. But if you watch the trunk, you will see its stability.

嵐のとき、木の前に立て。あなたがその枝を見ると、この木は倒れると確信する。しかしその幹を見たとき、不動の安定性に気づくだろう。

この言葉は、レヴェナントの中で死んだ妻のセリフです。すごく象徴的なセリフで、作中何度か出てきます。これは私には「秩序が変わるということが人間の生きる意味を変えることはない。」と、聞こえる。
超越的に誇り高いイニャリトゥ作品の主人公、リーガンやグラスは、翻弄されてもがき苦しみ最後は生死さえ判然としません。それでも命を最後の一滴までどんな秩序、システムに振り回されることなく暴れまわっている。それがすごく綺麗だなあ。と思います。
人工知能に仕事を奪われるんじゃないかとか、国の経済力が下がって貧富の差が開き続け、天国と地獄のように生活環境が分かれるんじゃないかとか、そういう秩序の潮目において損しないためにはどうすればいいのかとか、そんなことは本当にどうでもいい。
人間の生きる意味はパートナーや友人、子供といった縁ある人間を守り、自分の信じる価値を守って少しでも明日をよくしようとあがくことだろう。
それ以外はどうでもいいや。と気持ちが軽くなりました。他のイニャリトゥ作品も観てみたいな。

謎がひとつあって、本作のいたるところですごくマーク・シャガールの絵画を意識したシーンが出てきていました。イニャリトゥ監督はメキシコ人でシャガールとはあまり近くなさげですけど、きっと構図やモチーフにすごくインスピレーションを受けたのでしょう。とくに死んだ妻を思い出すシーン(地面と平行に浮いてる妻が出てくる)なんかはシャガールでみたことある。馬の目が大写しになる構図はど真ん中で間違いなくシャガール。シャガールの作品に「亡霊(レヴェナント)」というのがあったように記憶していますが、その作品とストーリーとの関連づけがあるかな。シャガールもメキシコで描いていた時期があるし、アメリカに亡命してから奥さんを無くしたあたりグラスと共通点があります。
でも、調べてみてもわからなかった。イニャリトゥのインタビューとかで言及しているのかもしれないけど。