2013/12/15

CSS Nite shift7おつかれさまでした!

東京には大した技術もないくせに目立ちたい気持ちだけは人一倍のれんちゅうが全国からあつまります。
デザイナーになりたいとか、デベロッパーになってスタートアップしたいとか、芸能人とか芸術家とか、方法はさまざまですが、初期衝動はたいてい目立ちたいだけです。

目立ちが足りないと東京はもう古いとか、いや日本がもうだめだとか、これからは西海岸だとかとにかく競争するネタを探しては、人と差をつけることに必死になります。口が達者でプライドが高くて、負けん気だけは人一倍。いつでも「より」自分にみあったもっといい環境がほかにあるはずとか、この相手よりいい相手がいるはずとか、ちっとも満足せず、文句ばかり言う身の程知らず。

そんなやつだらけの東京にたまあーに遊びに来ては、黙々と、楽しそうにはたらく。地域や、家族や、こどものために、自分自身のために、こつこつ技術をみがいて、いい仕事をする。
そういうひとたちが自分を仲間だと言ってくれて、しかも裏方しごとをしてくれる。ずっとむかし、ただなんとなく目立ちたいだけで東京にきて、なんとか生きながらえた自分に「いやーまたあえてよかった」とか言ってくれる。

そう言われると、また一年、胸を張って、目立ちたいだけじゃなくて、けっこう、けっかだしてるんだぜ。
と、いえる仕事をしよう。
東京を選ばなかった職人たちにみとめてもらえるように努力しよう。
と、CSS Nite 年越し企画のShiftに登壇するたびいっつもおもってます。
全国からスタッフでご参加くださった方、ありがとうございました。

来場してくださったみなさん、おつかれさまでした。また来年もいい仕事しましょう。

2013/11/27

40代デザイナー(女)体のお悩み

40代は思春期です。ホルモンバランスが崩れます。
ホルモンとはなんなのかよくわからないで言ってますが、とにかくバランスが悪いです。
ただ、大人になって経験と知識があるせいで、子供の頃のようにわけもわからず巻き込まれているのでなく、冷静に変化を観察して分析できるようになりました。
参考までにその状態をレポートします。

クリエイティブな活動をしているとき、新しい企画を立案するときなどは、自意識を過剰にして主体的にアイデアを繰り出したり、工夫を尽します。
この期間の私のテンションは非常に高く、自信満々で、自分が世界を変えてやるからお前ら全員黙ってついてこいやくらいの気持ちになっています。

結果、体にも変化が現れます。
まず食欲がなくなります。子供がいるので子供用には料理をしますが、わたしはキッチンに立ったままでちょっとつまむだけです。あと、睡眠欲がなくなります。寝る時間があるくらいなら作業を続けたい。早く出来上がりが見たい。という気持ちになります。
そして食べないし寝ないせいか、痩せます。顔もスッキリしますし、体も軽くてスタイルもよくなるしでノリノリです。

そうやって調子にのっていると不具合が起こってきます。
極端に協調性が無くなるのです。
そればかりかやや興奮気味に「自分は正しい」と考えているもんで、親しい関係の人々の「正しくない姿」にガマンができなくなります。結果、相手の間違いを正面切って指摘したり、気に入らないことを並べて不満をぶつけたりするようになります。
さらに自閉して「誰も私のことをわかってくれないの」とかんがえるようになります。

ここまできてやっと「あ!思春期なう♥」と気づくのです。

でも大人だからテストステロンのせいだということがわかります。
闘争本能や孤独願望はテストステロン(男性ホルモン)が優位になった症状だわ。と。
中学くらいで男子が盗んだバイクで走りだすのも芽吹きだしたテストステロンが脳内で暴れているからなんですね。
で、40代の場合、壮年期より体力でごまかしが効かないせいでか、ホルモンの均衡を欠いたときの作用が中学生と同じくらいのインパクトで来るようになるそうです(婦人科の先生談)。
クリエイティブな生活を興奮気味に続けているのは楽しいし良いのですが、イライラしたり、攻撃的な状態が続くのは望むところではありません。そこで私は大人の力でそれを修復しようと努めます。

女性ホルモンを分泌してホルモンバランスの均衡を取り戻そうとするわけですね。
薬を処方してもらう方法もありますが、ケミカルな手法は抵抗があるのでだいたい漢方とか食品でエストロゲンを誘い出そうとがんばります。

するとどうでしょう。あの時の攻撃欲は何だったのかしらー。ウィー・アー・ザ・ワールド。
みんなで手を取り合って平和を守りましょう(・ω<)
と、あっというまに気分が変わるのです。
そして素晴らしいことに他人には当然のことながら親しい人々にも寛大(むとんちゃく)な私が戻ってきます。おかえりなさいエストロゲン。
おかげでお母さんモードにもすぐ入れます。夜は家でゆっくり手の込んだ料理を作ったりして、子供と一緒に楽しんだり、休日は自分勝手にジムで体を鍛える欲も減って家事に専念したり。人の幸せはわたしのしあわせ。このまま仏になってしまいたい。なーむー。
なのもつかのま。いいことばかりはありゃしない。困ったことにはこのあたりでまた体に不都合が生じます。

まず、太ります。食べたり食べさせたりするのが楽しいので体重が増えます。テストステロン優勢期には全くなかった「甘いものが食べたい欲」も手伝って。
そして眠い。
なんか、すごい寝るようになります。朝5時より前に起きるのがしんどくなります。
今ならわかりますが、仏像がウトウトしてるみたいにみえて、しかも体つきが下っ腹ポッコリでどことなく女性っぽいのはそのせいか。と。
ピースフルな精神状態は眠気と腰回りの太さに宿るか。と。

うーん。どうしよう。太るのやだなあ。
でも攻撃的で孤独願望が強い人間になるのもいやだなあ。

ということで、今後はどうにか修羅と仏の間を高速で行ったり来たりすることであたかも1つに見えるような戦略を取って行きたいと思います。

と、イラついて人様に当たり散らしたことと怠慢で太ってきたことを頭いいふうに正当化するのはこのへんにしとくか...。外的要因のせいにして癒されました。明日からがんばります。




金が欲しくて働いて眠るだけ〜

2013/11/24

女性もどんどん働いたほうがよいというわたしなりの考え

トシをとったもので、若いデザイナーさんなど制作に携わる女性から「結婚や出産なども視野に入れると女性が責任持って仕事を続けることは、よいことでしょうか」といった質問を受けることがまれにあります。
個別にお話するときは個別の問題に対して一緒に考えるスタンスなので、あまり自分の話はしないたちなのですが、この機会に自分の考えを書いてみます。

結論からいうと、仕事の種類を問わず、女性ならなおさら結婚しようがしまいが仕事はしたほうがいいことのほうが多いと思います。

マイクロクレジットの創始者、ムハマド・ユヌスが
「人間は本来がアントレプレナー(新しく事業を起こす人)であり、古来から自分の身ひとつを戦略的に守る能力がある。
と言っていたとおり、なにも起業せずとも人は自分の力で身を興すことができる。と私も信じています。
自分の手で自分を活かしているということが実感できると自信が持てるし、何より自分が何かをやったり、やめたりするとき(生きるってやることとやめることの決断の繰り返しですよね)主体的に決断ができるようになるのです。また、自分が自由であれば、他人の自由も簡単に認めることができるようになります。

自由の解釈はアメリカの第三十五代大統領だったケネディの就任演説がもっともドンピシャで
「国家があなた達のために何が出来るかを問うのではなく、あなたが国家のために何が出来るかを問うて欲しい。(中略)最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達があなた達に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」
といったとおり、まずは自分自身の力をみとめ、活用する意思を持つこと。その前提がひとの関係を平等にするようすを自由というのですね。
仕事をし、生計を立てるということは

仕事をすれば、お金が手に入る。
お金があったらどんなものでも自由(気まま?)に手に入れることができる。

という、狭い視野における等価交換的な話ではなく、じつは、もっと重要な、自由と平等に関係するトピックなのだー。と、私は考えています。
いろいろ困難は想定できるにしても、女性男性問わず、こうした視点を持つのはわるくないんじゃないかな。
自由と平等ってそんなにいいものなの?
と疑問に思うかたもいらっしゃると思います。
わたしとしては、自由と平等のご利益を十分享受して生きていると感じています。
一番のご利益は「悩みがあまりない」ことでしょうか。
なにしろ、自由と平等の精神のもと、常に「納得」して、自分の進むべき方向性を「選択」していると自覚していますから「後悔」がない。

あと、女性の場合、出産とか結婚は人生から主体性を奪われるきっかけになると思いがちですが、子育ては(ばあいによっては結婚生活も)自分の人生より長く続くことではありませんから、自分が後悔しない環境をつくるほうが大切かもしれませんよ。

後悔がないというそれだけでも、わたしが生きるうえではとてもありがたいことだと思っているのです。

2013/11/15

釣り記事に重要なのはプレーヤーじゃなくなったときの非リアルさ

Chikirinの日記:大企業のほうが成長できるとか完全にウソ
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131113

という記事が話題だったのでなんとなく読みました。
ここで論じられている内容の是非については、このトピックに特に興味がないので考えていないのですが、書き表しかたについて興味を持ちました。
と、いうのもそれが、数ヶ月前に注目された

週刊現代Online:曽野綾子「私の違和感」 何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員たち
http://kodansha.cplaza.ne.jp/wgendai/article/130819/top_02_01.html

に似たところがあったからです。
それは

1.記事の筆者は記事のテーマに関わる「今」については当事者的な情報をもってないように読める
2.どちらも自分自身の過去の経験を引き合いに出しているが過去すぎて例として機能していない

の2つです。
ただ、物議をかもすのが目的だったわけではないとおもいます。結果的にかもしてしまったんじゃないかしら。

で、この2つが揃うと1つの想像がかもされてきます。

・筆者は記事で取り上げた内容に関心がある人を自分の考えに迎合させることが目的であって、記事の主題についてリアルに悩んでいる人の手本になろうとしているわけではないのかも

で、上記の想像はありきたりの風景ではないでしょうか。いろいろパターンがあるのですが、これらはまさに「俺が海外赴任してた頃はよ..」で始まる昔すぎて参考になんない中年オヤジの思いでトーク。とか。

本当に社会の中で(ビジネススキルを?)成長させる方法について自分ごととして考えている若い人は、例のブログに必要な情報がないことくらいすぐに分かるとおもいます。
また、子育てと仕事の両立にマジで悩んでいる女性がくだんの記事を読んだとしても、問題解決のヒントが無いな。とそっとウィンドウを閉じたはずです。

問題を抱える当事者にとって有益な情報は、やはり同じことに今悩み、解決をひねり出そうともがいている実践者(プレーヤー)のリアルな体験だけでしょう。
とはいえ、プレーヤーでない立ち位置からお話だけで影響力を行使するという仕事もあるので、そういう意味ではすばらしいスキルだなあ。
ともおもいました。



2013/11/10

萌えキャラ推しはひっそりが美しいのよ

Internet Explorerを擬人化したら萌えキャラになってました。
ちょうど5年前、わたしもIEの擬人化はしたんですけど、今回の結果にカスリもしませんでした。

http://builder.japan.zdnet.com/html-css/20385937/
http://yanorin.blogspot.jp/2008/11/ie.html

こいつがオフィシャル
https://www.facebook.com/internetexplorertan

かわいいですね。
台湾やシンガポールで始まったと言われるMSの萌えキャラ手法に日本が乗っかった形という話ですが、そう簡単に乗っかっていいのか!と、言いたい。
おっぱいちょっとおっきい、きゃわいいドジっ子のIEデス。という文脈を「一般コンシューマ」に押し付けることになるとはどういうことか、ちゃんと想像したのか??と問いつめたい。
私には、ドジっ子を全面に出せば、話題性につながるし、男社会のIT業界向けなら、過去のグダグダだったIEのブラウザとしての性能も許容されるでしょ?と言われているようにしか思えない。

幼稚なり。MS。
萌えキャラ好きを、なめなはんなや..。

萌えキャラの定義とは、その画風の特性みならず「男性目線で創造した理想的な女性のありよう」という位置づけも間違いでないとおもいます。
いわゆる「二次元」というジャンル全体がその定義にはまるもので、擬人化ジャンルの萌えキャラに至っては男目線が十二分に加味されたものであるのが普通です。
たいていが男性に対して従順で、子供のように庇護を求める存在でありながら体は成熟しているという矛盾を抱えるキャラだったり、あるいは華奢なのにやたら強くて剣一本で巨人を倒したりするような設定もあります。まあそういう造形的な特性の好みは人それぞれですので好みの数だけ設定があります。
そして今回のこの、「男性目線によって作られた架空の存在」と定義できるキャラとして、藍澤祈は十分か?という話ですけれども...

ダメですね。正直。男の夢をナメるな、と。
真面目な話、私は萌えキャラはもう日本の伝統的な文化じゃないかと考えていまして、文化認定された記憶に新しいものとしては近松門左衛門の「曾根崎心中」があるとおもうんですよ。
曾根崎心中って文楽になってますけど、文楽ってお人形なんですよ。曾根崎心中自体、門左衛門やっちゃったな。ってくらい、男が考えた最高の女の理想型なんですよね。私中身が男なので分かるんですけど、近代化された世の中で女みたいに本能に従うって男には無理なんですよ。いろいろあるんで。

「色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし..」

ってのはもう非現実的っていうか、むしろ男目線のファンタジーなんですよね。
そのファンタジー、担えるのは生身の女じゃなくてお人形なんです。
文楽ってもう人形作るのも、動かすのも、歌うのも、フルで男ですよ。文楽Pは全員メンズ。これはもう、ほっとこう。って思いますよね。逆にうらやましいですよ。男に生まれてよかったね。と。
それくらいクンクンに理想家した世界。で、そういう簡単には犯せない世界と地続きなのが、萌えだと勝手に位置づけてた私にとって藍澤祈ってなんか軽いんですよね。
それでいいのか?萌えファンよ?と。
で、結論としては、一般化しては逝けないと思うんですよ萌えって。
大きい会社が運用費使って萌え発信するって、なんか、ピュアな理想が犯されてる用に思うんですよね。カルチャーなめてるっていうか、そういうところが幼稚なんじゃないの??萌えキャラってのはひっそりたしなむのがオツじゃないの?と、思うわけですよ。

あーすっきりした。



心中シーン。
曾根崎の思いでは、大阪出張時、当時18キロだった、眠りこけた息子を背負って曾根崎の商店街を歩いたことでしょうか...一泊二日の荷物と息子、さらにMacBookProを担ぎつつ、通りかかったお初天神に向かって「なあお初さんよ..彼氏といまも幸せなら、その幸せを分けてさ..ACアダプタだけでいいから...だけでいいから持ってくんないか..」と、切実に語りかけたことが思い出されます。もっと軽くなれ!AppleのACアダプタ!!





2013/11/09

セックスは互いを知る手段でもなんでもない

ペドロ・アルモドバル監督の「トーク・トゥ・ハー」という映画があります。
台詞や情景の美しさが洗練されていて、総合芸術分野の映画として歴史に残るはずの作品です。
闘牛士として心も体も剣のように尖って生きた女と、ダンサーとしてふくよかに、柔軟に生きた女とがそれぞれ昏睡し、男に看護される。そして日々起ることへの対処の違いによって、全員の生き様が分岐していく。というのが筋です。
ダンサーをケアする男は彼女にずっと片思いしていて、長く自分の母親のケアもしていたのと少々発達障害的なところがあることからか過去に一度もセックスはおろか女性とつき合ったことがない。
彼女が事故で昏睡したことを知り面接の末ヘルパーとして雇用された男は、毎日彼女に話しかけ、数分おきにマッサージし、日にあて、身なりを整え、思いや言葉でなく一分一秒行動によってケアしていく。新生児に対して母親がやるのと同じことをする。わかろうがわかるまいが話しかけ、さわり、笑顔をみせる。

となりの病室に担ぎ込まれた昏睡した女闘牛士にも男が付き添っている。傷心の彼女をなぐさめたのがきっかけで関係がはじまったこの男は「彼女がそうしてほしいかどうか、会話ができない今となってはわからない」という理由で、ケアを躊躇している。
その男に、ダンサーをケアする男は「君は女を分かっていないね!女には一方的であれ、会話が必要なんだ。なんでもいい、話しかけて、気にかけてあげることが大事なんだ」と笑ったとき、闘牛士の付き添いが言った台詞が

「セックスをしたこともないお前が女の何を知っているっていうんだ!」

です。映画を見ればわかるのですが、人種文化性別問わずこの映画を見た人間のほとんどがここで

「わかってないのはお前だよ!!」

とツッコむように、この映画はできています。
セックスはこの映画の非常に重要なファクターなのですが、「互いを知る方法」としては使われません。
セックスはなんかもっと、個人的な文脈に支えられて至る行為というか「心も体もひとつになってあいしあう」的な言葉は、もしかすると、軽薄なエクスキューズなのかもしれんと思えるほどです。

そもそも愛情や慈しみの発動というのは、相手が男だからアリ、女だからナシというものでもないでしょう。
答えはないんですが、そんな感想を持ちました。

ところで女闘牛士には別の男がケアを名乗り出てきます。
その男は過去に彼女とペアを組んでいた男ですが、名声を得ると彼女のもとを去り、関係を解消しようとしました。彼女が昏睡した理由はその男と関係があるのですが、それが突然彼女の元に戻り、いままで面倒を見ていた男を追い払うのです。これからはずっと一緒だ。とかいってメソメソ泣きながら。その後間もなく女闘牛士は目覚めないまま死にます。
男と対等に渡り合い、女性らしく生きなかった女闘牛士が、結果、本当の意味で愛されずに死ぬというのは救いが無いですが、女性らしいダンサーとのコントラストもよく、彼女の登場シーンはすべて大変美しかった。迷い、間違えながら生きる人間のすがたは美しいのです。

2013/11/04

脅威の洛中洛外図観てきた

東京国立博物館の京都展、洛中洛外図の前期展示が今日までなので朝、仕事前に行ってきました。
特に、狩野永徳による国宝「上杉本」が今日で入れ替えです。普段は米沢市上杉博物館にあるので興味のある方は是非。
洛中洛外図というのは「手描きの京都ストリートビュー」というか、小高いところから京都を俯瞰して描写した屏風絵のことです。桃山時代に朝倉家が最初に発注してからというもの権力者の間でもてはやされ、現存する作品は7点。京都展ではその全部が展示されます。
6枚折れ2セットで1組の屏風に異常なまでの執着心で京都の建造物、風俗が細部にわたって描きこまれており、上杉本に至っては2500人も人間が描いてあるとか。

屏風絵はネット画像なんかで観るとわかりますが、しろうと目にも建物がなんとなくやや後ろに引き倒れたような、俯瞰図のはずなのにアオリ構図っぽく見えてしまう特徴があります。これはたぶん屏風絵がもともと座って観るものであるために、見上げる視線に合わせて描かれているからだろうと想像します。
あと、よーく観ると屏風のエッジの折りの角度と、描かれている建造物の軒のラインの角度とがびたっと合わせてあるのもわかります。この点に注目すると、軒などの横の線と、柱などの縦の線とがグリッドをなしているのが見えてきて、平面図であるはずのモチーフがグリッドごとに立ってくるようにみえてきます。絵というよりも、屏風というモノの機能も込みで計算して作ってるのが洛中洛外図のすさまじいところ。室町時代からエグゼクティブは、高層階にオフィスを構えて、窓の大きい自室から都会を見下ろすような気分に浸りたかったんですね...。

ところで京都展の個人的な目玉は二条城二の丸御殿大広間四の間の「松鷹図」がまるっと展示されてるところです!
狩野探幽の豪快な筆のうなりもきこえんばかりの迫力であります。わたしはガチガチの形式美を自ら作り、表現上の制限と個性の発露を高次元でせめぎ合わせる狩野派のなかで「オラオラオラー」と、かたをやぶる探幽が最高に好きなんですが、今回松鷹みてはっきりわかったんですけど、探幽の筆は井上雄彦によくよく似てませんでしょうか。妙心寺の龍雲図的な作品、そろそろ井上さん描けるんじゃないでしょうか。

全国のお寺さん、是非ご検討ください。

おまけ
もう1つ洛中洛外図の面白いところは、大きい作品だと作るのに10年くらいかかっちゃうところ。1つの画面構成に異なる時間軸を継ぎ接ぎしているわけですね。そう考えると、同一人物だけど3回出てくるとか、最初出てきたときは赤ちゃんだったけど次は小僧。とかありそうです。



やだ!ほんとに描いてる!!と全世界が驚嘆してもおかしくない。

2013/11/03

嫉妬心から開放される方法を見つけました

塩野七生のエッセイ集「男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章」の中に、「嫉妬」と「羨望」の違いをシェイクスピアの「オセロ」を題材に説明している章がありました。うまいこと整理されていて素晴らしかったのでその視点を借りて嫉妬心について考えたら克服法を得るに至ったので説明します。

オセロの筋をひとことで要約すると「妻を失う恐怖に狂ったオセロと、オセロの地位を羨むイアーゴの自滅物語」です。
つまりオセロは嫉妬心で、イアーゴは羨望で潰れるわけです。
ここで塩野さんの視点を借りて嫉妬と羨望の違いを整理すると

・嫉妬は「持っているものを失う恐怖」
・羨望は「持っていないものにたいする欲望」

となります。なるほど両者は性質が違う。

たいていこの2つは合わせ技で関わってきます。たとえば
「恋人に、経験が豊富で容姿もよく、かつ優秀な異性の友人がいることを知ったときの漠然とした不安」のような状況を考えてみましょう。その不安には

・恋人の関心がその人に移るかもしれない(嫉妬)
・その人は自分より優秀かもしれない(羨望)

という2つの感情が含まれます。つまり嫉妬と羨望とはSとN極のごとく影響しあってドライブするわけです。
この場合嫉妬は他者を傷つけるための具体的な行動と地続きで、羨望はなんらかの策略を凝らさすモチベーションになりやすいです(ストーカー殺人とかはその状況が極まったかんじです...)。
嫉妬と羨望から開放されるためあえて「人に関わらない」という道を選ぼうとする向きもありますが、よい人間関係からしか幸福が得られないことも証明済みらしいので、それもまた不幸なことです。
私は是非「人と関わりながらも嫉妬しない、羨望しない」ことを目指したい。

そこで私は考え、結論に至りました。

どちらも「感情」から起こってくることなので、これを「理屈」で解釈し、克服するのは無理。

というわけで、私は心理面を分析することをあきらめ、嫉妬や羨望が身体に及ぼす影響について観察することにしました。
実験として嫉妬心が生まれるシチュエーションに自分を置いてみると次のことがわかりました。

嫉妬からはまず胸がドキドキして、心臓に血が集まるような感覚が味わえました。そのあと動悸が胸からヘソのあたりに落ちるような感覚がありました。
羨望では頭の両脇が締め付けられるようなかんじがあり、そのあと頭の血が下のほうにぐーっと落ちていくように思いました。ただ、どちらの感覚もへそから下には行かず、へそのあたりに溜まる感覚がありました。

ほうほう。へそ、やばい。へそ、狙われてる。

そう自覚したとき閃いたのが「ヒクソン・グレイシー」です。
いや、ヒクソン好きならだれでも知ってるとおもいますが、ヒクソンは精神を「呼吸法」で操ることに長けていることは有名ですね。いわゆる「火の呼吸」というヨガの一種ですが、これは息を鼻から全部吐き切ったあと、さらに肛門と性器を引っ張り上げる感覚でもっと吐く。という書けば簡単だけどそう簡単でない方法で呼吸をコントロールするというアレです。
アレ、実は、嫉妬と羨望という2つのクリティカルなネガティブ要素を排除できる唯一の手段なんじゃないのか?と、私はヘソつながりで仮定したのです。
いや、たいした深く考えてないんですけど、あの嫉妬のときの「ぐーっと血と一緒に下がってくる何か」をやり過ごすには、普通にヘソからその作用を外に出せばいいんじゃないの?(やれるもんなら)。と、思った次第です。

実践あるのみ!と、いうわけで今日からなんとかヒクソンの呼吸法に精通し、私も今日から400戦無敗伝説を築こうと心に決めました!
免疫力もあがるらしいよ!でも、難しくて全然できねえ!
しかしよく考えたらこれって美木良介式、必ずやせる 「ロングブレス」ダイエットじゃないのかw?
どっちにしてもいろいろ健康によさそうだからヒクソンを見習って嫉妬と羨望にまみれた人生からの脱却に挑戦してみます。
パパウパウパウ。



3:10あたりから出てきます。ちょっと見たかんじ、無理っぽいです!


2013/10/28

Louこれからもずっとともだちでいて

ルー・リードが死んでしまいました。
たしか、美大生らしくウォーホルをおっかけていた途中、ファクトリー武勇伝的な文脈で音を聴いて、ギャーとおもったのだと考えてます。
大学に入ったばかりで友達もいない自分の、唯一の友達というか、酒を飲む時のアテのように聴いていたせいでか、とにかく真っ暗な中で聞こえてくるのは、Louの声だったので、目をつぶったり、暗かったり、なんだかわからなくなったときにはいつも、Lueの顔をわたしは見てたように思います。
さみしいときに考え事をするのが嫌で、The Velvet under groundをヘッドフォンで聴きながら、ラム酒をコップでガーッと飲んで、安心できたことをよく覚えています。
いつだったっけか、村上龍がトパーズという映画の監督をして、完成打ち上げの受付をやったとき。おさげのインド人みたいな格好の私にどんな音楽が好きなの?と尋ねてきた男に、Velvet under groundと答えたら、あーVelvet under groundが好きな自分が好きってタイプだ。と言われてこの野郎と思ったんだけど、その後新宿アルタ前を行き交う人をボケーっと撮影してたその映像の中にその男が歩いてるのがたまたま写っていて、お前は私の世界のクソくだらねえ1片の風景だ。ざまあみろ。と悪態をついて、Velvet under groundの音楽をアテてやって1つの映像作品として仕上げてやりながらもそのフッテージをなくした。
て、ことをなんか思い出した。
Louが死んで、年をとると自分が自分でいることの証拠を失っていくということの実感がよくわかった。でも、それはあんがい、悲しいことではなかったな。

これからもずっとともだちでいてね、Lou。

2013/10/17

これが自我の芽生える瞬間だ!

ママ、きょうかんがえたんだけどさ..
と、結構深刻な顔だがちょっと面白い顔で息子が夕飯時なんかいうので「なんだね?」と、きいてみた。

教室のともだちの顔を見てたらふと、ぼくの目に見えているのと同じように、ともだちには世界がみえているのだろうか... ってすごい気になってさ。

友達の目に見えているぼくはどういうふうなんだろうなー。っておもってもわかんなくてさー。

友達の目に見えてる世界はどんなふうなんだろうなーって思ってたら、もしかして宇宙とかはひとがみえるかずだけこのよにあるんじゃないのか?とか、みんなそれぞれちがうプログラムで動いてるなんかよくわかんないいきものなんじゃないか??
とかおもえてきてつまりね。

ひとのかんがえてることって、わかんないの。わかんないって、こわいね。

と、食事しながら聴いていたきゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりぱんぱん」のリズムにのってちょっと首をカクカクさせながらも目だけ真剣になっていました。

10歳かー。そろそろきてるな。とおもいました。

2013/09/20

iOS7をおしゃれに使い続ける方法

なんかiOS7がかっこわるいという意見が多いので、デザイナー視点でおしゃれに使いこなす方法を考えました。参考にしてください。

1.バックグラウンドはグレーに
平坦になってもきらめくような色使いで見るたびワクワクするiOS7ですが、面が強調される外観になったせいでか、以前のバージョンよりも色の1つ1つが際立って目につくようになりました。主張の強い色は、並んでしまうと全体が「色で飽和した面」のように見えることになり、結果的に個々のアイコンに目が定めにくくなります。これが「iOS7はごちゃごちゃしているような気がする」という感覚の正体です。同じような光景は郊外にある広めのドンキホーテ店内などで見ることができます。色に色を重ねた売り場にあるそれぞれの棚が、まるで横尾忠則のポスターのようなカオスを感じさせますね。
あなたのiOS7がそんなことにならないために、バックグラウンドには必ずグレーのグラフィックに指定しましょう。グレーは色の飽和を抑え、各アイコンの色の干渉を断つ唯一の選択肢です。愛犬の写真とか、ハワイの夕焼けとかにしてはいけません。

2.アプリをダウンロードしない
Appleのオフィシャルサイトに掲載されているiOS7のホーム画面は文句の付けようが無い、グラフィックデザインとして完成された美しさです。デザイナー視点でみると、まさにそこがiOS7の欠点いや凄いところだと感じます。
もしあなたが無印良品で揃えた雑貨でリビンクを完璧にコーディネートしているとして、そこにオカンが町内会のお祭りで無料で配られたという商店街の名前の入ったコップを置いていったら、どうするでしょうか。
あなたはそれを見えないところにしまい込むはずです。そしてコップたった1つの破壊力の大きさを知るでしょう。
つまり、完璧な外観のコンポジションは、ぶち壊すのが簡単だということです。
そんな清らかなコンポジションに、ソーシャルゲームや占いやパズルのようなアプリのアイコンを並べてはいけません。アプリは極力ダウンロードしないようにしましょう。

3.iPhone 5sを買う
Appleは何年も前からハードとOSを二人三脚で進歩させてきました。古いハードでiOS7がかっこわるく感じてしまうのは、古いハードを使っている人が悪い。と、ジョブズが生きていたら言うでしょう。
抽象的なフォルムに有機的な動きが特徴のiOS7は、なめらかな動きを伴わなければデザインのポテンシャルは60%程度しか伝わりません。
また、繊細なグラデーションで構成したグラフィックは最新のディスプレイでのみ輝くはずです。
すぐ買い替えてください。

では、楽しいiPhoneライフを送ってくださいね。

2013/09/03

エロサスペンス史上最強最悪の悪魔

荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟
の中でエロサスペンス史上最強最悪の悪魔女優が出ていると評されていたのが「le'ennui 倦怠」。しかも荒木先生によると「ちょっとかわいいブス」とのこと。その容姿が気になって気になって読み終わってから速攻観ました。
確かにブスでした。ただし当然その佇まいは表現上の必然によるものでした。
倦怠は知的労働(大学で哲学を教えている)に従事する中年の男が17歳のぽっちゃりしたブスとのセックスに溺れる顛末をうまく描いた映画です。フランス映画らしく欲望の客観視が酷でした。もう突っ込むだけのセックスのあと、余韻もなくパッと体を離して帰り支度をし、ドアに向かって歩く女に後ろからさらに突っ込む。それは大食い大会でカレーを食らうギャル曽根を見るかのような、「食事って、なんだろう...」という本質からの離れっぷり。しかもブス。けどボイン。とにかくやりたい。お金をあげるから。いかないで。もういちどだけ。と、追いすがる男。これは荒木先生も恐怖におののくのわかる。「いっぺんやっただけでアウト」という覚せい剤級の効力を持つ女がいました。とう設定なのですから。

この物語は「若い女とセックス中に死んだ男」に興味を持った主人公がたまたま相手の女に会って、興味本位で自分も関係を持ったが最後えらいことになる。という筋なのですが、明らか薬物中毒の筋に同じなのでした。
セックスシーンが殺伐としていてこの映画のパッケージが醸す「エロいかんじ」への期待が砕かれるのが万人受けしないところではありますが、こういう女はアカン。という教えがあると同時に、アカン女への興味も十分かき立てられるんじゃないかという作品でした。

荒木先生は自分をよく理解している人間らしく「怖い!やだ!」とおおいに拒絶していましたが、うっかりすると人生の手の届くところにああいう女はいるでしょう。
わたしが関心したシーンは主人公がバスルームで鏡を見ている脇で女がパッとパンツを下げてジョロロロローッと小便をし、脇にかかっているバスタオルのはしっこをひょいっとつまんで股にはさみ2、3回往復させてもとあったところにかけなおすところです。
もうカメラは寄りもしない。こいつこういう奴なんだよね..的な。ファッションもいいかんじで、カボチャみたいな白いバンツはいてて安っぽいけど体の線がよく見えるワンピースで、主人公が「なんだそのシミ?」と指摘したら「あー服きたまんまセックスしたからー(別の男と)」とあっけらかんと答える始末。そのうえ男はおろか家族さえ愛さない空虚な精神だけどボインだという。怖いです。こういう女をみかけたらすぐ逃げた方がいいです。

で、面白いのは主人公の別居中の妻である知性的で美しい女性が、終始彼の愚痴を聞く役になっているところ。彼女に夢中なんだ!とか、彼女は俺を愛してないらしくてつらいんだ!とかいちいち聴かされても「あらまあそうなの...」なんていって聴いてあげてる。そういう嫁さんから逃げたくなる理由があったのもわかる気がするが、逃げるような奴だからこそアカンとこに堕ちるのもわかるようにできてる映画でした。

ちなみに美しい妻の役はアリエル・ドンバールという南米生まれ、アメリカ育ちのベテラン女優。アリエルの夫は政治にも発言権のある哲学者のベルナール=アンリ・レヴィ。映画のオープニングやエンディングには軽快なラテンミュージックがあしらわれてて、なんかアリエルに捧げてる感じがしないでもなかったです。
アリエル大好きですけどね。倦怠の時はもう50くらいだったと思うけどほんと美しかった。でも、アリエルみたいなつわもんの女から逃げない男はセクシーでふてぶてしく暑苦しいBHLのようなオッサンだけ...とおもえば若い女の体に逃げる人生もまあそれはそれでええんちゃいますかともおもいますた。

2013/08/19

問題:守るものがある人間は強いか、弱いか。

ダニー・ボイルの「28日後」やっとみた。
ゾンビが100m12秒くらいで駆け抜ける様子だけで「もう世界終わったな」と感じさせられる絶望に満ちた作品です。
たくさん見所はありますが、この映画の主題はやはり
「守るものがある人間は強いでしょうか?弱いでしょうか?ファイナルアンサー」
です。
本作が出す結論は映画をみるとわかるので詳しく説明しませんが、その答えに行き着くまでの描写が全然ホラーに感じられないというか、普通に私が普段暮らしている世界と変わらない部分が多く感じられ、それがショックでした。
例えば薬剤師とか車のタイヤを素早く取り替えられるとか人を殺したことがあるとか車持ってるとか、そういうナイスな能力を持っていないとまず見捨てられるという設定。災害ものにはよくある設定ですが、改めてみると都市部の仕事事情とさほど変わりません。なんらか人より優れたスキルがあって始めて人として存在できるんだぞこの野郎。という脅ろかし。本当にそうかどうかは別として、そのような強迫観念に晒されながら私は日々を乗り越えています。IT業界はゾンビ業界ですよ。
で、主人公たちがそうしたスキルを結集させながらどんどん話はすすみます。さらにショッキングなのは、明らか自分の腕っ節だけで、他人を蹴落としながら生き残ってきたようなマッチョな連中が、実は孤独なサイコ野郎に牛耳られているという設定です。これもある。あるある。あるよ!クソ狭いクラスタの常識にだけ忠実なサイコ野郎ほどSNSで大人気的な!
女子供なんか仕事のジャマだとかいって仕事に邁進。周りからは「いっぴきおおかみすげえっす」てきに言われつつも実はそういう人たちが群れる場所が特殊でその中心にいる人間が殺伐として非常識。みたいな世界。
孤独に耐えるっていうのが子供のうちはなんかストイックに見えるけど、実は自分の身ひとつしか守れない無能の裏返しであるということはよく知られた現象ですが、この映画では「そういう存在が陥る地獄」が描写されています。

そこまでいうと「守るものがある人間は強いでしょうか?弱いでしょうか?」という問いに対する本作の答えはうすうすわかってしまいますが、これはネタバレでもなんでもなく真理なので明かしますと「強い」んですね。
ただ映画だから理想化されてるけどね。だって主人公の兄ちゃんだけ人を愛する以外なんの特殊技能もないっちゅう設定だし。ただ、そこに説得力があるのが映画の力ですけども。
とはいえ守るものがある人間が強いから守る側になったほうがお得よねー。みたいな話でもないですよね。この映画で凄い好きなシーンは、最後のほうで彼女が般若の形相で「目を開けてえええええ!」と雄叫びながら心臓マッサージするシーン。そのわけわかんなくなってる様がリアルで好き。
守るものがあるってほとんど反射だから本人バカみたいにわけわかんなくなるだけなんですよね。
ということは「守るものがある人間は強いでしょうか?弱いでしょうか?」って問題じゃなくて本来は
「自分の気持ちに素直になるっていいよね!」なのかも。
だとしたら「自分の身しか守れない!お前殺しておれ生きる!」って人も美しくはないが悪くない気がしてきました。
あそっか「最新技能も習得できない地頭の悪い人間は他人を守ることで生き残ろう」ってことか!クソっクソっ(すみませんダニー先生)。でも技能がないと守るもんも守れないからがんばろう...ハアハア。

いやー。ゾンビ映画って本当に良いものですね...。

ところで「ブラピの世界ゾンビ大戦(ほんとはそんなタイトルじゃないです)」で後半ペプシが執拗に出てくることが話題になっていますが、ペプシはゾンビ映画公式飲料(矢野認定)なので当たり前だ。という認識も確固たるものとなったのもよかったです。

2013/08/14

home and dry

海外出張寂しいなー。
やることいっぱいあるけど顔が濡れて力が出ないなか、フとあるフレーズが気になりました。

home and dry

柔軟剤ではありません。
「やっとのことで成功する」「目的を果たす」のように訳される英語です。
そのまま受け取ると家と乾燥ですが、家の外で雨に打たれるような厳しい経験の果て、やっと居心地の良い場所に行き着けた。という安堵感が伝わってきます。このフレーズ、90年代を生きた音楽好きならPet Shop Boysのズバリ「home and dry」が思い浮かぶはずです。
以下歌詞

So my baby's on the road
Doing business, selling loads
Charming everyone there
With the sweetest smile

Oh tonight
I miss you
Oh tonight
I wish you
Could be here with me
But I won't see you
'Til you've made it back again

Home and dry
Home and dry

There's a plane at JFK
To fly you back from far away
All those dark and frantic
Transatlantic miles

(以下略)

和訳
私の愛する人は出張中
ビジネスで、売りまくってるの
最高の笑顔で
いろんな人を魅了してる

でも今夜はあなたに会いたいな
今夜あなたと一緒にいられたら
でも大丈夫。
おれやったぜ!ってまたきっと帰ってくるまでは。

JFKに降りた飛行機たち
キチガイじみてるほど世界の反対側を超えてまでして遠くから



それだけではありません。
もう1つhome and dryを象徴的に使っている楽曲がありますね。
John Lenonn没後発掘されみんなびっくりした「free as a bird」にもこのフレーズがあります。

以下歌詞

Free as a bird
That's the next best thing to be
Free as a bird

Home and dry
Like a homing bird I fly
As a bird on the wings

Whatever happened to
The lives that we once knew
Can we really live without each other
Where did we lose the touch
That seemed to mean so much
It always made me feel so

以下略

和訳
鳥のように自由に
それは2番目にだいじなこと
巣にもどる鳥として
やっとのことでたどりつく場所こそだいじ

なにがおこったって
離ればなれで生きていくことなんかできるかな
ふれあうことでたくさんのことがわかるっていうのに
そんなふうにおもうと
(鳥みたいな自由は...)


ジョンのデモ


ポールがしゃしゃりでてくるバージョン

このような優れた2つの楽曲に触れると
home and dry
というフレーズは「成功」という言葉の真の意味に触れているいい言葉なんだろうとおもいました。
「金と名誉」を達成したあと、あんたどうすんの?という恐怖の問いかけ。そんなふうに聴こえるのが「home and dry」な気がします。

ちなみにJohnがデモで残したのは「As a bird on the wings」までで、あざとく解説を入れるような「Whatever happened to」以下はポール先生が取っ付けたっぽいです。

ところでThe beatlesとして後にリリースしたfree as a bridのジャケットは、マッパだけど、フルチンじゃない。なぜかしら..。






2013/07/25

ゴルァえもん時計


以前から気に入る時計がなくて困っていたのですが、息子が描いた変な絵を使って時計を手作りしてみました。
5mmのアクリル板に絵をUV印刷し、ドリルで穴をあけてムーブメントを取り付けただけの手抜き時計です。「ゴルァえもん」は絵を描いたとき、アンドロイダーの百名編集長が名付けてくれました。

新幹線の中で描いた、たった5cm程度の手書きの元絵をXperia Zで撮影、Photoshopで144dpiまで水増ししてレベル補正してます。印刷の場合、白はヌキになるので、アクリルはカラーにしました。
入稿データ(PSD)にはグレーっぽいノイズが含まれていましたが、見事にヌケました。逆に言うと、のる色の諧調が限られている...ということでもありますが、太めのフェルトペンなどで白い紙に書きなぐった落書きなどはいい感じに印刷可能だと思われます。じゃあ直接板に描けよ..とも言えますが、UV印刷はインクの「のってる感」が結構あって、直接描いた風合いとはまたちょっと違った感じでよかったです。

PSDで144だと高さ30cmには微妙に足りなくて、文字盤がよく見ると眠いです。
こんどはちゃんとAI入稿するか、350dpiに足るデータにしようとおもいます。


軽いから3Mコマンドタブのフックで適当に貼付けられます。私はアクリル板を印刷しただけで、ムーブメントは息子が勝手に取り付けてました。


2013/07/24

小学生が考えたAppleまきかえしのひさく

息子:(ニュースをみながら)ママーっ!Appleのタブレット商品売れてないんだって...

ママ:そんなことを夏休みの小学生が心配しなくていいよ。宿題やれよ。

息子:これはまきかえしのひさくがひつようになるな...

ママ:どこで覚えたんだよ。歯磨きしろよ

息子:わかった!ハーイハーイ!地味に金を取るゲームアプリをつくる!

ママ:いや、Appleがやらなくていいでしょ

息子:1ステージ10円。

ママ:いらないし

息子:わかった!お金を取るアプリしかインストールできないiPhone!

ママ:売れないよ

息子:いまiPhoneを買ったひとにはもういっこiPhoneがついてくる!

ママ:Appleの戦略じゃないでしょ

息子:うーん、わかった!!空間に立体的なモノが見えるようになるメガネ!

ママ:それAppleじゃないとこがやってるわ

息子:そっかあー。難しいなあ。頑張ってほしいね...てんぷくさん。

ママ:ティムクックさんだよ。失礼なききまちがえすんなよ。

いやー。いろいろダメですねー。

2013/07/18

息子の中国日記

先日一週間ほど息子を中国出張に帯同したときの日記。

ぼくは、一週間中国に、いました。
一週間、百度のかいぎしつにいたからあまり中国の、思いでがないけどびっくりすることはたくさんありました。たとえば、空気がうすかったり、上半身はだかのおじさんもいました。セブンイレブンがあったり、にせアップルストアがあったり、すごい場所です。
しかも、かんかんでりでも一時間後急に雨がふってくるようなこともあるし、食じ中は、つめたい飲み物は体にわるいから、あついお茶だけでした。しかも、中国は、ゴミの分べつをしないからゴミばこにいろんなゴミをいれてもいいんです。中国がぼくは、とても楽しかったです。


はだかのおじさんがにせアップルストアにいこうとしているの図

2013/07/07

怒りをコントロールする方法の入り口

先週、日本アンガーマネジメント協会、アンガーマネジメントファシリテーターの須田愛子さんをお招きしてお父さん、お母さんを対象に小学校でイベントを開催しました。とても面白い内容だったのでレポートします。

■アンガーマネジメントとは?
 怒りを適切に配分する・コントロールすること。具体的には、ムダな怒りを減らし、怒る場合は、表現方法や時、場所を見極めるといった自分の怒りの管理を意味します。
ただし怒りの感情を否定するものではなく「怒ってしまった自分を責める必要はない。怒ることはダメではない。精神衛生的には怒りを感じないということの方が問題」なのだそうです。子育て世代のよくある悩みに「あとで考えればつまらないことでも、そのときは感情的に子供にあたってしまうことがある」という話がありますが、怒りを悪いことと考えるのは、罪悪感によって精神的な健康を損なってしまう原因になるので注意が必要なんだとか。また、こうした問題は「怒り」について理解を深めることによってある程度解決できるのだそうです。その「怒りとは何か」を知る前に、まずイライラの原因についての話がありました。

■イライラの原因
 
怒り(イライラ)の原因のトップ3は「子ども」、「夫」、「自分自身」との調査結果が紹介されました。これらの3つの存在に共通しているのは、それぞれ自分にとって身近な存在であるということ。身近だからこそ、自分がコントロールできる対象だと思い込んでいるけれども、実際はコントロールできていない(宿題をしない、片付けない、など)ということが、怒りを生じさせるのだそうです。


■怒りの性質
 こうした原因を見極めることで、以下のような怒りの性質に気づくことができます。怒りは、


1. 身近な対象にほど、強くなる;相手をコントロールしようという気持ちの表れである
「言わなくてもわかるよね?」「これは常識でしょ?」のように考えることが怒りに結びつくのだとか。
2. 高いところから低いところへ(怒りの連鎖)
強い立場にある人間から弱い立場の人間に流れる性質があります。
3. 伝染しやすい
親がストレスから家庭内でイライラしていると、子どもがその影響を受けて学校のような集団生活の場に怒りを持ってくる傾向があるそうです。
4. エネルギーになる
怒りには、怒りをバネにして、モチベーションを高め、困難を乗り越えるエネルギーに変えるといったプラスの側面もある、とのことです。手塚治虫の「火の鳥」に登場する「我王」という彫刻家は「怒!」と叫びながら仏像を彫っていましたね。

■怒りは2次的な感情である
講演の中で触れられた子供に対する「よくあるイライラした対応」のうち、「怒りは不安や悲しみという一次感情が変異した、二次的な感情である」と説明した点には心当たりがありました。例えば子供が約束した時間に家に戻ってこず、帰ってくるなり「どこで何をやっていたの!!」と怒鳴りつける。というのはよくあることだと思います。しかしこれは言葉通りの質問ではない。一次的には「子供の安否を心配した不安」があり、それが怒りに変わるんですね。また、どこで何をしていたのか、という言葉を子供はたいてい言葉通りに受け取りますから「○○くんと、公園で、遊んでいた」のように説明することが多いのですが、このとき怒りの中にいる母親は「そんなことを訊いているんじゃありません!」と返してしまい、それが子供の「母親の期待に答えようとする態度を否定した状態」になってしまい、最終的には子供は悲しくなる。また、幼年であれば泣いて終わるところが、情緒が発達した相手であれば「悲しみ」という一次感情が二次感情としての「怒り」に代わり、ドアを思い切り閉めてその場を去る。といった行動になってしまう。まさに悪循環。怒りが伝染しやすいのは、不安、悲しみというコミュニケーション阻害が生み出す一次感情が原産だからなんですね。ちなみに怒りは三次的な感情にシフトするらしく、強い怒りは「恨み」に変異するとのことです。

 ■怒りを抑制する代表的なテクニックの紹介
 具体的なアクション(行動)や意識付けで、誰にでも、自分の怒りをコントロールすることができるようになります。

短期的・対処術
行動
意識
1. コーピングマントラ(魔法の呪文・言葉)
 怒ったときに自分自身を抑える言葉。
例:たいしたことない。大丈夫。どうってことないよ、と心の中で唱える。

2.
カウントバック
 ゆっくりと100から3ずつ減らして数える(100,97,94,91…)。意識を別のことに向けることが目的。反射的な怒りを抑える効果がある。
1. スケールテクニック
 怒りを10のレベルに分ける。ちょっとしたイライラも、ものすごい怒りも、同じように考えずに段階分けをしてみる。評価基準があれば、小さい怒りは受け流すなど対処できる。頭の中でレベル分けをしているときは、瞬間的に客観視でき冷静になるので反射的な行動が抑えられる。


長期的・体質改善
行動
意識
1. 身体リラクゼーション
 有酸素運動;ジョギング、水泳、ヨガ、ストレッチ等。
 一定時間これらの有酸素運動をすると、脳内にセロトニンやエンドルフィンが放出され、リラックスしてストレス緩和につながる。ただし運動が苦手な人がやると、かえってストレスになるので、無理は禁物。
1. 「べきログ」を付ける
 私たちは「○○すべきだ」という信念に基づいて生活している。自分が長年親しんでいることや、正しいと思っていることなど、自分自身の価値観をノートなどに書き出す。
 目の前で起っていることと、自分が思っていることが違うとき、怒りが発生する。自分の価値観を客観的に把握することで怒りが生じにくくなる。

まず、カッとなった瞬間、自分自身がコーピングマントラとして心の片隅においておいた言葉を思い出してみて、実際言葉に出してみます。あるいはカウントバックで瞬発的に起こしてしまいそうなラフな言動を抑制しようとつとめる。
それでうまく収まった段階で、自分が感じた「怒り」のレベルの測定を試みる。もし「レベル4程度以下」と判断できるのであれば「忘れられる。受け流せるレベルである」と、考えてみるのがベスト。

最初は受け流すことが難しいことも多くあるとのことですが、身体リラクゼーションを生活に取り入れることによって体質が改善できたり書き溜めた「べきログ」をみて自分が「何に対して許せないと思いがちなのか」を客観的に把握しようとつとめる。それができれば「自分にとって大きな怒りにつながる出来事」と「そうでもない出来事」を分けて考えることができるようになり、なんでもかんでも「イラッときたら態度に出る」という状況からは脱することができるようになるのだとか。
自分も講義を受けて実際の行動に移す努力をしてみました。行動、意識ともにアクションは常に長年の習慣に立ち向かう必要があります。一瞬で体質を変えることはできませんでしたが、怒りの理由がわかるようになっただけで、かなり多くのイライラを捨てやすくなりました。

あと、具体的なアクションとして試みているのは、子供を怒鳴ることを自分に禁じたことです。私は受講する前までは「子供を怒鳴ってコントロールすることがあっても、それは子供にとってはなんらかの耐性を養う機会になっているはずだ」と信じていたのですが、怒鳴りの由来は怒りですから、これを機会にやめたのです。
まだ数日ですが、やめてよかったです。正直普通に話して言い聞かせた方が、その内容がよほどおかしなことでもないかぎり、子供はちゃんと行動できるようです。「片付けなさい!」と怒鳴るより、ふつうに「朝片付いてた方が気持ちいいから、片付けてくんない?」とお願いした方が、片付けてもらえるようになる。よってこちらの目的には効率的に到達できるようになる。というわけです。
確かに怒鳴る時って「子供が親の言うことを訊くのは当然だ」みたいに、子供にしたら目の前の問題と無関係の理屈がそこに混在してますから話になってなかったなあ。と、今は思えます。

ただ、職業上生活するうえでの「こうあるべき」的な考えはあるほうなので、その部分と子供や他者との折り合いをつけることには死ぬまで努力が必要なのだろうとは想像しています。少なくとも前向きな「怒り」と、環境を汚染するたぐいの「怒り」の区別には意識的になろう。と思った機会でした。