法的な意味におけるわいせつとは、いたずらに人の性欲を刺激し、正常な羞恥心を害して善良な性的道徳観念に反することだそうですね。
よく芸術作品とわいせつ物との線引きって難しいよね。という話がありますが、人がどんなビジュアルによっていたずらに性欲を刺激されるのかは「趣味」という名の主観、感性によりけりですので杓子定規では判断できないので当然です。
ただ1つ、わかりやすい判断基準を示すとするなら「性行為をストレートに表現したビジュアルかどうか」があげられるでしょう。
あるいは、そのものズバリでなくとも性行為を容易に想起させるビジュアルかどうか。も、基準としてはアリな気がします。
ところで芸術作品としての男性ヌードは珍しいものではありませんし、男性器が写っていたとしてもわいせつ物としてとがめられるケースは少なかろうと考えます。
しかし一方でわいせつ指定されてしまう作品もあります。レスリー・キーが2011年に開催した展示会で展示したForever Youngというタイトルの男性ヌード写真です。この写真では男性モデルは勃起してます。
おそらく、勃起していることが「性行為の準備が整っている」と見なされて、わいせつ認定されてしまったのでしょう。本作品の芸術性や評価についてはほかに専門性の高いかたがしていらっしゃるので触れませんが、小役人の杓子定規だと「勃起=わいせつ→逮捕」で仕事が成立すれば動く。ということだったのでしょう。
逆にいうと男性器の場合、勃起さえしていなければ、それはわいせつではないと言えます。
存在感のある男性器が印象的なダビデ像も、メープルソープのヌードに写る巨大な男性器も、わいせつではないのです。
ところで女性器の描写は男性のそれよりわいせつと言われやすいのはなぜでしょう。たしかに、これまでの芸術作品において女性器を客観的に描画したビジュアルは、わたしからみてもだいたいわいせつです。
なぜかというと、女性器は普通にしていると、見えないからです。
わたしは自分で持っているので知っていますが、女性器って全裸になるだけなら全然見えないんですね。観察者に向かって両足をかなり広げないと見えない。この構造上の都合から、女性器を描写した作品は、それの持ち主である女性を「性行為の準備が整っている状態」としてあわせて描写している状態になります。
そのような意味で、エゴン・シーレとか会田誠とか葛飾北斎らが描いた女性器(とその持ち主)は相当わいせつです。ただ、そのときどきの文化的な背景などがあって作品で逮捕されることはどのかたもなかったと思いますが。
では、部品としての女性器とか、セルフポートレートとしての女性器はどうでしょう。
わたしはおもうに、これって勃起してない男性器と同じ解釈ができるんじゃないかと思います。女性器を見せている対象が作品中に存在しない。つまり、女性器の持ち主が誰かに向かって足を開いてない。女性に「性行為に及ぶ気がない」という意味で、全然わいせつじゃないだろうと。
3Dプリンターで自分の性器をデータ化したことで咎められたかたがいらっしゃいましたが、スキャナーに向かって足開いただけですから。
ただ、出来上がった立体造形が正常な羞恥心を害するか?という点については確かに女性器は男性器よりも「見えにくく」「見慣れない」ものであるがゆえに鑑賞者をはっとさせるモチーフではあるでしょう。
しかし、田舎の露天風呂の脇にある巨大な男性器の像に比べれば破壊力は小さいというか、女性器もその辺に陳列できる世の中になれば、そのうち見慣れることもあるかもしれません。
というわけで、わたしは女性器そのものの立体造形はわいせつとは言えないんじゃないの派です。
と、同時に、部品としての女性器単体でわいせつ感を醸し出せる彫刻なり、立体造形があったとしたら、ぜひ見てみたいです。それはすごい表現力というか、芸術作品として相当の価値があるんじゃないかと想像しています。