先日とある女性から、おすすめのスマートフォンアプリは何かと質問を受けました。
そんなときGoogle+というFacebookでもTwitterでもMixiでもないSNSがあるので使ってみてほしいという話をします(まだあんまりしられていないのです)。しかし私の説明が悪い性でか、どうも「使ってみたい」と言ってもらえたためしがありません。
それでも、Google+は女性にこそ使って便利な機能があると日頃感じている私は説明をするのですが、説明がいまいち女性に響かない理由が今回、何となく分かりました。
私の説明は以下のような感じです。
Facebookだとこっちから情報発信したいときその露出先を友達か、あるいは友達じゃないそれ以外の全部の人しか選べないじゃん?でもGoogle+はまずそこに溜まってる人間の中から自分の知っている人を選んでサークルってのを作ることができるの。例えば小学校の父母会関連とか、学外の子どもの知り合いとか、自分の職場関係者、自分の趣味の範囲に居る人たち、あるいは昔からの友達、親類縁者みたいな感じでサークルを分けて情報の公開範囲を選んだりできるわけ。ほら。つき合う相手によって話したいこと、オープンにしたい情報って変わるでしょ?
と、そこらへんまで話したくらいで相手の顔を見るとだいたいドン引き。そして不思議なことに自分自身も説明するに従って、また相手の不安を感じ取るだに居心地の悪い気分になってしまう。
なんというか、自分が卑怯な八方美人に成り下がったような感じ?
でも決してそうではないハズなんです。
人間だれしも相手に応じてコミュニケーションの方法を変えたいという欲求はあるはずですし、意図的に変えるほうが相手にとってもストレスがないうえに、自分も余計な気遣いはしなくて良いという意味で精神衛生上健全な環境が作れるはずなのです。
ただ、「相手を選んで発言する環境が作れる」という率直なベネフィットを包み隠さず語ることで
「それって秘密の多い、後ろ暗いマインドに与する道具では...」
みたいな空気をビンビンに醸して立派な墓穴を掘りまくってしまう。確かにわたしもふくめて女性は隠し事が嫌いです。自分には何でも明かしてほしい。という欲求はあたりまえにあります。でも、コミュニケーションにおける儀礼とは、態度やキャラクターをポジティブに使い分けることでありましょう。しかし、それは女性にとって認めがたい性質だとしたら。
そしてGoogle+を使う、認めることはその性質を認めることになってしまうとしたら...。
サービスの説明をすればするほど相手が興味を失ってしまうって凄い現象ですが、だからこそ説明をあきらめないぞ!と逆にモチベーションが上がってしまうのでした。
アガサ・クリスティ
「春にして君を離れ」
人間っていろんな面があるのねー。というしょうもなさを受け入れるほかない荒涼とした読後感。内省という行為の自己完結ぶりを見せつける、アガサ初期のミステリーでない珍しい作品です。