その類型とは
「競争」(たとえばさまざまな球技のスポーツ、および将棋、碁など)
「僥倖」(ルーレット、その他のギャンブリング)
「擬態」(こどものゴッコ遊び、演劇など)
「眩暈」(スキー、スケート、回転遊びなど)
です。
たしかにどれも子どもの頃からなじみのある行為であり、だれしもやりたくなる、やってきたことですね。年齢問わず生活のなかで求めていることでしょう。
ソシャゲーとか、そもそもSNS自体こうした要素にありつけるしくみに需要が集まりますが、それらはこうした原則にちゃんと沿って作られているんだということがわかりますね。人間とは常に遊戯という褒美を求めて社会という規範に耐え生きているのやもしれませぬ。
が、そこに加えて以下の指摘があります。
それらの異常として
「競争」は規則無視の攻撃となり
「僥倖」は迷信に
「擬態」は分裂病に
「眩暈」は薬物嗜癖に
なる。
そうですか...。
リストで見ると刺激的です。でも、ですよ。SNS上のアクティビティが多い人って大なり小なりこの異常をすでに感じているんじゃないか...と思ってしまいました。
たとえばSNS内でちょっとした議論が持ち上がった時「私の方がその件についてはよく理解している」的な切り口で、論点から逸れても持論を執拗に展開しあうことでしっちゃかめっちゃかになってしまった話題に触れた時、「競争」の異常を感じます。
また、レアカードという実態のないブツに対してかりそめにも価値を感じてしまっている状態にも「僥倖」の異常を感じざるを得ません。それ、ほしいか?という。それそんなにだいじなの??と、ソシャゲをやっていない人にはその価値を信じることが難しいんじゃないかという点で。
SNSでは一貫して明るく前向きで他人に気を使う活発キャラだが実際一緒に仕事していると利己的感情的になることのよくある子どもっぽい人だったな..とか、ツイートは無欲で清純だけど実際の行動はどん欲でエロい人なのな..といったネット上の人格と本人との乖離は今や珍しいことではないですが、「擬態」の異常ですね(分裂病は現在統合失調症に名称変更されてます)。
「眩暈」の異常は物理的視野に対する現象ですからコミュニケーションベースのメディアでは発現しないと思います。
こうやって上げて行くと荒涼とした気分になりますが、異常と定義されなければ、結構普通なこととしてSNSユーザーなら誰しも受け入れてきた状況なんじゃないかとは思います。だってもともと人間が生きる上で必要とする「遊戯」の成れの果てですから、そこに踏み込んだモチベーション自体は異常ではない。ただフィジカルから離れた遊戯はかくも残酷に精神を異常に運ぶということには私も無自覚でした。
ただ、そろそろと違和感を感じている人もいるはずです。
いや、そういうことに疲れたり、おかしくないか?という人によって再発見されたのが、もしかすると「Makerムーブメント」なのかな。と思います。
唐突なようですが、本来のものづくりもモチベーションは遊戯にあるとおもいます。
本来のMakerムーブメントはSNSと無関係だったでしょうが、SNSのあるくらしで物足りなさを感じている人がMakerムーブメントを再発見した理由として、狂気からの脱却。ってのはあるのかな。と。
いや、狂気はあっていいんです。私の場合は狂わされてることに飽きましたね。なんか、SNSの仕組みの中で無自覚に狂気と肉薄することに飽きています。
踏み外す時は自覚的でありたいものです。
ご存知キングクリムゾンの「21st Century Schizoid Man」です。
Nothing he's got he really needs
欲しいもの、本当に必要な物は何も手に入らない。
Twenty first century schizoid man
21世紀の精神分裂症患者。
ですって。1968年に出来た曲(20世紀)なのに、達観してますね。
ちなみにレコ倫の指摘で最近は「21世紀のスキッツォイド・マン」という表記に変更されましたが「21世紀の精神異常者」の邦題のほうが通りが良いです。