2006/05/30

先取りと前のめり

ジャック・デリタ「盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟」という書籍を読んでいる。本書はルーブル美術館で1990-91年に開催した特別展向けテクストの和訳だ。同展覧会では氏が所蔵品から展示作選定を担当している。哲学者の絵画論に興味があって読んだのだが、手仕事である素描の本質に言葉で どんどん迫っていく様子がとても刺激的だ。絵画における盲者の描かれ方から、人間にとって「視る」とはなにか、画家の観察眼のありかた、さらに描くという 行為の面白いところを明らかにしていく。行為としての視覚を「先取り」[anticipation]という言葉を軸に考えるくだりに

「先 取り」とは全部をつかむこと、前から、前もって(ante)取る(capere)ことである。「前のめり」[précipitation]は頭を危険にさ らす(prae-caput)こと、頭からつっこみ、頭から先に出ていくことであるが、先取りとはそれとは異なり、むしろ手にかかわる事柄である。
<<中略>>
先取りは前のめりを防ぐ。先につかもうとし、把握、接触、把持の運動において前方におもむくために、空間へと前進し空間に働きかける。


と いう記述がある。確かに目が利かないとき、手の触覚が唯一、二足歩行する人間の安全を推し量るための「環境の先取り行為」になる。前のめりはあぶない。 けがのもとだ。しかし目が見えていても画家をはじめ、ものづくりに関わる人間ならば鉛筆や絵筆を握った「手」で平面上に空間を押し広げていくものだろう。 すばらしい肖像画が、その描かれた人物の生き様さえも推し量らせる表現力を持つのは、画家が制作の極みにあって目に見える事柄以上をその手に「把握」し、 「先取り」した結果なのかもしれない。
だとすると、美しいグラフィックやデザインの構造を見たり聞いたりして頭で理解する行為は、影響力のある力強い作品を生み出す行為と、直接接続する回路を持たない。批評と創作が別の仕事であることはいうまでもないけれど、手先、接触、感触、把握といった言葉が重く響いてくる。
今、 面白いデザインを、珍しい視覚表現を、比類ない映像を、創りたいとして切磋琢磨する人の、どれだけが「物理上存在するモノの手触り感のバリエーション」を 知っているのか。創作にとっての「先取り」は、やはり身体経験の延長上でしか到達し得ない境地ではないか?ちなみに経験という言葉には、身を危険にさらす という意味があるらしい。ウェブ経験とか言うが、身が危険か?安全だ。間違いない。
デジタル世代の身体感覚欠如・・なんてありがちな切り口だが、今後は意識的に触覚を鍛えて行こうと考えた次第だ。