ペドロ・アルモドバル監督の「トーク・トゥ・ハー」という映画があります。
台詞や情景の美しさが洗練されていて、総合芸術分野の映画として歴史に残るはずの作品です。
闘牛士として心も体も剣のように尖って生きた女と、ダンサーとしてふくよかに、柔軟に生きた女とがそれぞれ昏睡し、男に看護される。そして日々起ることへの対処の違いによって、全員の生き様が分岐していく。というのが筋です。
ダンサーをケアする男は彼女にずっと片思いしていて、長く自分の母親のケアもしていたのと少々発達障害的なところがあることからか過去に一度もセックスはおろか女性とつき合ったことがない。
彼女が事故で昏睡したことを知り面接の末ヘルパーとして雇用された男は、毎日彼女に話しかけ、数分おきにマッサージし、日にあて、身なりを整え、思いや言葉でなく一分一秒行動によってケアしていく。新生児に対して母親がやるのと同じことをする。わかろうがわかるまいが話しかけ、さわり、笑顔をみせる。
となりの病室に担ぎ込まれた昏睡した女闘牛士にも男が付き添っている。傷心の彼女をなぐさめたのがきっかけで関係がはじまったこの男は「彼女がそうしてほしいかどうか、会話ができない今となってはわからない」という理由で、ケアを躊躇している。
その男に、ダンサーをケアする男は「君は女を分かっていないね!女には一方的であれ、会話が必要なんだ。なんでもいい、話しかけて、気にかけてあげることが大事なんだ」と笑ったとき、闘牛士の付き添いが言った台詞が
「セックスをしたこともないお前が女の何を知っているっていうんだ!」
です。映画を見ればわかるのですが、人種文化性別問わずこの映画を見た人間のほとんどがここで
「わかってないのはお前だよ!!」
とツッコむように、この映画はできています。
セックスはこの映画の非常に重要なファクターなのですが、「互いを知る方法」としては使われません。
セックスはなんかもっと、個人的な文脈に支えられて至る行為というか「心も体もひとつになってあいしあう」的な言葉は、もしかすると、軽薄なエクスキューズなのかもしれんと思えるほどです。
そもそも愛情や慈しみの発動というのは、相手が男だからアリ、女だからナシというものでもないでしょう。
答えはないんですが、そんな感想を持ちました。
ところで女闘牛士には別の男がケアを名乗り出てきます。
その男は過去に彼女とペアを組んでいた男ですが、名声を得ると彼女のもとを去り、関係を解消しようとしました。彼女が昏睡した理由はその男と関係があるのですが、それが突然彼女の元に戻り、いままで面倒を見ていた男を追い払うのです。これからはずっと一緒だ。とかいってメソメソ泣きながら。その後間もなく女闘牛士は目覚めないまま死にます。
男と対等に渡り合い、女性らしく生きなかった女闘牛士が、結果、本当の意味で愛されずに死ぬというのは救いが無いですが、女性らしいダンサーとのコントラストもよく、彼女の登場シーンはすべて大変美しかった。迷い、間違えながら生きる人間のすがたは美しいのです。