ジョージ・オーウェル原作、ハラス&バチェラー夫妻監督作品の「動物農場」を観ました。
動物農場は、横暴な人間からの支配と搾取を逃れた家畜たちが、支配を逃れる方法を考え、革命を主導した豚によってまた支配される。という人間がこれまで何度も四季のように繰り返してきたイベントを丁寧にアニメーション表現した作品です。
より詳しい内容などは2009年にジブリが配給&DVD化したときのサイトで確認するとよくわかります。
とくに宮崎駿がインタビュー形式で本作を解説した
http://www.ghibli-museum.jp/animal/neppu/miyazaki/
この記事は、宮崎さんの歴史に関する知識や独自の視点がよくよく提示されていて、本作に対する理解を深める助けになりました。読んでから観ても良いとおもいます。
動物農場は、動物たちが豚を排除する、という意思を見せて終わります。
一緒にちらちら見ていた(英語しか音声がないのであまり興味がもてなかったらしい)息子に、権力者を排除したあと、動物たちはどうなるとおもうか?と尋ねてみました。すると、
「みんな自由になりらくえんのようなせかいがおとずれるだろう」
と言いました。
動物農場を評するインタビューで宮崎駿は
ぼくは、楽園というのは、幼年時代にしかないと思います。幼年時代の記憶に、楽園はあるんだと。楽園をつくろうという運動はいつもあるけど、かならず挫折するのはそれなんです。だから、「この世は楽園じゃない」ということで生きるしかないんです。
と言いましたが流石です。
自由ってなあに?ときいたら「人間は自由にしていても、ちゃんと自然にみんなのりえきをかんがえることができる。自由に自然でいていいじゃないか」
と。とても子供らしくていい意見だとおもいました。ただ、同じことをいい年の大人が言ったとしたら、それは、わたしはアホだとおもいます。
奴隷制度と理想の社会についてラース・フォン・トリアー監督が描いた「マンダレイ」という映画にあったくだりを思い出します。
マンダレイという寂れた街では「善意で」支配者を排除し、奴隷を解放した余所者の権力者の娘が暴君になるまでを丁寧に描いています。最後に娘がたどり着くのが「人間は社会に割り当てられた役まわりを引き受け、それを演じられるのが成熟した人格であり、理想を追い求めるだけで、自分自身の役割と現実をちゃんと理解していないものは、中途半端なやっかいものでしかない」ということ。
んで、たまたま動物農場を見たことをきっかけに、わたしなりに「子供」と「権力者の娘」の共通点を考えてみたのです。
で、おもったのですが、わたしの息子やマンダレイの主人公である権力者の娘の両者とも「自分が他人の助けになる能力について、具体的にはぜんぜん自覚できてない」ということが浅はかさを生むのではないでしょうか。
自分の力についてちゃんと向き合えれば、どれだけ時間がかかっても、人は人をぜったいに幸せにできる。で、自分以外の人間を幸せにできる能力について自覚があれば、革命は必要ないんじゃないか。革命は、自分の心についておこすことができ、楽園を、自分の心に作ることができるはずなんじゃないのかとおもうのです。
わたしは、大人は自分の外に楽園を求めるわけにはいきませんが、自分の中に楽園を持つことはできるとおもっています。
例えばこの写真に自虐的な自己憐憫を感じた人が居るとしたら楽園はどこにあるでしょうか。
動物農場は、とにかくわたしにとって、外の世界にまだ見ぬ楽園を求めることは間違いであり、自分にできることは、自分の中に楽園を作ること、そして他者の利益を第一に考えること、さらに、人間の権力者という取り替えのきく切ない傀儡に判断をゆだねず、大きいなにか(たとえば自分にとっての神様とか太陽とか)をよく愛することが、私はしたいのだ。と、自覚を深めるきっかけになりました。それはほんとうに、よかったです。