今日は「どうしてそしきはくさるの?そしきがくさったらどうするの?」という問いに対して真剣に向き合わねば書けないメールを書いていたため、午前中いっぱい時間をつかいました。
と、ある組織のやりかたに賛同できない部分があれば、その部分を指摘し、苦言を呈することが、ひいては社会という組織の劣化を拒否することにつながる。それをおこたる、みてみぬふりをするのは怠慢であり、責任放棄だ。というご指摘への回答を作成していたのであります。
書いていて気がついたのですが、わたしは「正義とは、こうだ!」という考えがまったくないんですね。
なので「そしき、こうあれかし!」の「こう」がなくて、苦言を呈そうにも地盤がないからお話が組み立てられないという。
たとえそしきが官僚主義的ルールにのっとってうごいていて、そのルールにのっとりえらくなることが勝ちのゲームを繰り広げることが恒常化し、結果勝ち上がった人々がそしきを私物化してしまったあげく、都合の悪いパーティをオレオレルールでとりつぶしたりなんかしても、「ああ、もう、しょうがないなあ」としか思わない。
けしていいかげんな気持ちで動いているわけではないんです。どうしてそしきはくさるの?という問いを考えると、そうならざるをえない。だって官僚主義的ルールにのっとったゲームを開始してしまうひとはきっと、その組織に参加したときはやりたいことなんかなくて、だれかに「行ってこい」って言われたから来ただけで、つまんなかったから主旨と違うゲームに夢中になっちゃっただけなんだと思うんですよ。
そこじゃないでしょ〜。と言ってもその人はゲームをやめない。人間、やってて面白いことに夢中になるのはしかたがないですから。
それに、わたしは組織の劣化を拒否して社会の劣化を防ぎたいと思わないです。社会における自分の居場所をクリーンにしておきたいという気持ちがないです。
最近気がついたんですが、私は居場所なんかなくてもいいんです。ただ、大事な人と一瞬でも手をつないでいられたらそれでいいんですよ。
だからこっからここまではおれのシマだとか、リーダーを糾弾して正義を、自由を我らにとか、トップダウンとかボトムアップとかピラミッドとか組体操とか、いいんです。
ほんとにそうおもってます。すみませんでした。