2013/04/30

大自然死


4月29日7時45分、とうとうばあちゃんが110年にわたる生涯を終えました。
死因は無し。内蔵、細胞のひとつひとつがハードの限界を迎えたようです。
書類上は「老衰」ですが、死というよりむしろ「停止」といったほうが正しいような気がします。
ばあちゃんは最後まで病気にはなりませんでした。病気でないということは、医者が生命の危機を迎える時期について読めない。ということでもあります。
病気という「原因」がある場合、それにあらがうための「手法」を考えたりとかその手法を講じた結果を予測することができますよね。命が病にすこしずつ奪われる。それを少しでも食い止める。という攻防のなかで初めて医者は残りのHPを計算することができるのだなあ。と、ばあちゃんをみていておもいました。ばあちゃんの場合、いつ停止するのかは医者にも最後まで予測ができませんでした。

ただ、長い年月のなかでばあちゃんを世話し続けてきた私の母が唯一ばあちゃんの死期をかなり正確に悟ったみたいです。
母は「ばあちゃんは呼びかけに反応したり、食事をしたがってはいるが、もう惰性で動いているようで、ばあちゃんの個性が外に出ないようになった。そろそろかもしれない」と、亡くなる二日前に言っていました。ボケているとかでなく、動いてるけどまったくコンタクトが取れない感じとか。インプットはできるがアウトプットの処理ができなくなる、それがなんかリアルに「死」ということっぽい。
最後は深く息を吸って、吐き出さずに終わったと訊きました。
士族時代、会津戦争で敗退。屯田兵として北海道に追われたばあちゃんの家族はその後いっぱい苦労したとおもいます。
ニコニコ超会議2終了までがんばってくれてありがとうございました。
考えるのをやめ、完全に停止してしまいましたがばあちゃんは、立派なアルティメット・スィングです。



今頃大気圏外で「星!バカな!」と言っているのかなあ。


2013/04/25

110年生きた人間が最後に考えること


物欲とか名誉欲とか、欲というのはいろいろありますが、いつになったらそんな欲から解放されるのだろう、と、思うことはありませんか?

うちのおばあちゃんは110歳です。
私が物心ついたころには既に80歳でした。80歳のばあちゃんは学校から帰るといつも再放送のルパン三世を見ていて「ばあちゃんはルパンみたいな男が大好きなんだよ」と言ってました。
ビートルズよりもサイモン&ガーファンクルが好きだけど、A day in the lileは面白いから嫌いじゃないよ。とも言ってました。
そんなばあちゃんももう110歳です。

ばあちゃんは、90歳くらいのとき、食べ物にこだわり始めました。
おいしいジュースを買ってきてほしい。とか、お酒が飲みたい。とか、とにかくあれ食べたい。これ食べたい的に、食べ物のことをやたらリクエストするようになりました。

しかし、100歳近くなったころ、その時期は終わりました。ばあちゃんは次に、物にこだわるようになったのです。
私の財布はどこなのさとか、最近財布からお金が減ってるけど、どっかに隠してるんじゃないの?とか、口を開けばとにかく財布とお金の話ばっかりしていた時期があります。その頃、宝飾品にこだわったこともあります。
私の指輪がどこそこにあった気がするけど、誰か盗んだんじゃないかとか、言ってました。

105歳くらいの頃、そのクレームは終わりました。
ばあちゃんは、食べ物のことも忘れ、宝飾品のことも忘れました。
いっとき、私のポケットからお札がなくなるといってきかないので、ティッシュをポケットに詰めて、「ほら、あるよ」といってなだめたこともあるくらいだったのに、急にどうでもよくなってしまいました。

次にばあちゃんが気にしだしたのは、じいちゃんのことです。

じいちゃんには、じつはわかい女がいるらしい。
じいちゃんは、わたしに着物を売れという。わたしは、自分の一番気に入りの、着物をこれから売りに行く。だがそれは恐らく、そのわかい女と生活をするために、必要なことなのではないか。じいちゃんはその女と、そこで暮らしているんだ(なんか奥のほうを指して)。
と、よく言ってました。
じいちゃんは、わたしのことを、裏切っている。
とか、
男なんかそういうもんだ。
みたいなことを、100を過ぎた老女が。とてつもなく大きな声で言うのです。

50年以上前に死んだ男のことを。

じいちゃんは50代で他界しているので、ばあちゃんはもうじいちゃんに、50年以上会ってません。
それなのに、100歳も過ぎて、ばあちゃんは、じいちゃんという一度愛した男のことを思い出してはあらぶっている。
これにはまいりました。

孫の私はこう思っていたのです。
おっぱいや顔がしわしわになり、性別もわからなくなってしまえば人間なんか、欲という欲から勝手に解放されるに違いない。何かを「欲しい」とか「こうあってもらいたい」などという世界に対するリクエストなんかなくなって、すごい自由に、ラクに、生きて死ねるはずだと思っていたんです。
でもベストプラクティスであるばあちゃんはちがいました。
ばあちゃんは今でもじいちゃんが、自分を裏切ったのかどうだか知りたがっている。
つまり、自分という存在意義を、食い物とか金とか宝石みたいな物欲に投射せず、愛した他者に最後丸投げして(相手は死んでいるのにもかかわらず)いまだその意義を確認しようとあがいている。

結局のところ、どんだけハードとして衰えても、ソフトはそれをあきらめない。
ばあちゃんはじいちゃんをあきらめない。
いや、じいちゃんをあきらめないのがばあちゃんである。ということになってる。
じいちゃんがばあちゃんであり、ばあちゃんがじいちゃんであるのかもしれない。
そんなのしらんけど、ハードが衰えれば理性が衰え、そして最終的にはだれもが自分が全身全霊精神をまるなげした相手を思い起こすのであって、最終的には「あの人大好きだったなあ」というどうしようもないきもちがわーって来て、そのことばっかり死ぬまで考えるようになるのかもしれん。もっといえば人間、長生きすればするほどむしろ愛だの恋だのに支配されて死ぬのかもしれん。ええ?ほんと?!とか思いました。
つまり、わたしの想像の中の「老い=無」というのは間違いで、老いるほど愛着に正直になるもんなのかもしれんと思いました。でもそんなのをいまは面倒だとおもいます。でもきっとその面倒なのが結局は人間の本質であるようなきもします。

わたしはじいちゃんに会ったことがありませんが、日清、日露、第一次、第二次(戦争)、といろいろパスしてもなお心にじいちゃんを抱くばあちゃんが死んでしまうと、ふたりいっぺんになくなってしまうような気がして、今から涙がでます。でも、まだ、やや元気ですけどね。ばあちゃん。

2013/04/21

世の中やりたいことがはっきりしているやつばかりではない。

とあるテレビ番組で、一週間のうち、コーチがくるのは土日の2日間だけで、あとは基本自主連、というやり方を実践している高校サッカー部を紹介していました。コーチ曰く、子供を叱りつけながらスポーツ指導すると子供は動物のように、言われないと何もできなくなってしまうので、自主性を尊重するのだとか。
最近野球を始めた子供が見ていて「うちのコーチはすごく怒鳴るよ。あれは良いのかな?ぼく、これを見て、コーチたちが間違っているって気がしてきた」と言い出したので以下のように話しました。

自由にやらせたとき「今日は疲れているから休もう。」という人と、「誰よりもうまくなりたいから毎日練習しよう。」という人が出る。最終的にレギュラーになるのは毎日練習したほうだとママは思う。もしみんながだらけてしまったらという心配はない。「自由な雰囲気」は人気があるから入部したがるひとはおおい。ただ、そこで残るのは本当にサッカーがしたい。という人だけだろう。生徒もしかられてへこまなくてすむし、教えるほうも次第に優秀なのとそうでないのとがわかれていくから教えやすい。自主性をおもんじる、というやりかたは、どちらにとってもとてもいい方法だ。

ところで、デキるひとが残ればいい。という考え方もあるけれど、ママが大切だとおもうのは、世の中には「やりたいのか、やりたくないのか、自分ではよくわからないが、どっちかといいうと、がんばってみたい」という人がいるということだ。

そういう人は、まわりから少し厳しく言われて、ちょっとイヤイヤでもがんばらされることによって、自分でもびっくりするような力がでることがある。自由にやらすというやりかたは、そういう、自分で自分の力に気付かない人を見のがしてしまう方法でもあるんじゃないだろうか。

自分の力に気がついていない人の良いところを見つけて、励まして、たまに怒鳴って、がんばらせようとしている、今のお前のコーチたちのようなやりかたは、実は教えるほうにとっては、もっとも手間がかかって、面倒で、しんどいやりかただ。そういう手間のかかる方法を選んだコーチたちをママはとても尊敬しているし、普通の人間ができることではない。だいたいひごろは普通のお父さんで、自分でも仕事を持っていて、土日に休むこと無くグランドにきて、最も面倒な方法でお前に野球を教えるコーチや監督が、間違っているはずがないと、ママは思う。

人間は動物とは違う。動物はやりたいことしかできない。でも、人間は、やりたいかどうかわからないことでも、自分の力を発見して、驚いたり、うれしくなったりできる可能性が、あるんじゃないかな。たとえしかられて、少し悔しい思いをすることがあったとしても、そこで終わんないのが人間なんじゃないのかね。

というふうに。

翌日朝起きたら息子はちゃんと自分でユニフォームに着替えていたけど雨で練習は、休みでした..。




Foo Fighters - The Pretender

自分が何者かをわかっている人間などそうはいないのですねー。



2013/04/15

「人のため」それ自体良いことだけど続かないんじゃないのかしら

林さんが感想を書いてくださった!!ありがとう!

「人のためにという気持ち」

ちなみに林さんはWebとかデジタルデザイン関連の人材教育に尽力しているかたで、わたしは何度となくお世話になっている素晴らしいかたです。

林さんがおっしゃるように「何か人のためになることをしたい」というモチベーションをもった人が自分自身を卑下する必要はない。というのは私もそう思います。

でもね。「人のためになにかしたい」という動機で何かを始めた人にかぎってすごく早く燃え尽きるんですよ。
なんか、むなしいー。とかいって。
人間にとって見返りはすごい重要です。それを求めることは良いも悪いもない。当然の生理でしょう。ただ、やっぱり前のエントリで書いたみたいにね、人がそれをどう評価するかってのは、わかんない。ということを前提としないと、どんだけがんばろうと、どんだけいいことをしようと、ちょっとしたことで
・あの人は自分の真意にどうしてこたえてくれないんだろう
・なんかみんなちっとも感謝してくれないな
・自分のしたことは間違っていたのかな
といった、他人はおろか自分のしたことまで疑って、簡単にくじけてしまうという。
なんかそういう状態になってから、周囲を悪化し始める残念な人をみるたびに、「自分のためで、いいじゃんかー」って思ってしまうんですよね..。

人間の行動原理になり得るのって極論すれば「自分のため」か、あるいは「神とかなんかすごいリアクションが計り知れない何か」の2つしか、ないんじゃないかなあ。って思うんですよ....。
自分のリアクションは、自分で理解できるし、神とかはもうたぶんこっちのことは見てるけどもリアクションは期待できないぞ、って、人間もわりきってるはずなので。
つまり、「人のため」それ自体はいいことなんだけど「行動原理にするのは問題があるんじゃないかしら」というふうに、思っているんです。

2013/04/13

子供とか、まわりのみんなのためにホゲホゲするとかダメ


わたしは子供のために、とか、わたしはチームみんなのために(少々無理して)仕事する。
という、自分の行為に対する表現方法がありますね。
が、「人のため」は自分自身の行為の目的として妥当ではありません。理由は、それを目的にする場合のメリットとデメリットを見るとわかります。

※「人」がこちらの行為をどう受け取るか、という観測できない部分を排除するため、メリットデメリットは行為の主体である自分自身を中心に考えます

人のために何かをすることの
メリット
・その行為がどのような結果になろうと批判されにくい
・大義名分があるので行動するのが苦じゃない
・感謝されたときのうれしさが倍増する

デメリット
・行為の末、評価されないと非常に腹が立つ
・他人の利益にこだわるあまり、振り回されて損をするおそれがある
・そもそも損をしたことに気がつかないことがある

率直に書くと矢野はとんでもなくひねくれた人間に思えますね..
しかも一番重要なことが注釈になっています。人のためが目標としてダメなのは、結局そうやったところで肝心の「人」が自分の行為をどう評価したか、ちゃんと観測できないために、結局「ためになったかなど、どうせわかんねえ」という点です。
なので目的としておおいに間違っている。
誰かのためになりたいなーという希望は純粋に「良いこと」ですが、それを目指すんであれば、あくまで行為の目的は「自分のため」にして、それが結果的に「他者から主体的に」感謝されるという(結果)を座して、勝手に待ってろよ。と。

私も過去に覚えがあるけれど、だいたい「人のため」とうっかり言ってしまう行為にかぎって、わりと自分勝手な都合の発露を遅らせたい。という下心があるものだったりします。
だから、わたしは人のためと簡単に言ってしまう人を「ニヤニヤ」と思ってしまいますし、気をつけようと思います。
ただし「あの人のすることは常にみんなの利益になるよね」のように第三者を評価する目的で使ったり、子供などがそういう評価を他者に出来るように望みつつ「人様のためを思うのはよいことだね」と言って訊かしたりするのはアリですね。



Aphex Twin がとても有名になったアルバム「I Care Because You Do」いいタイトルですねー。「あなたがしてくれなきゃ、ぼくはあなたを相手にしてあげない」くらいの意味でしょうか。子供ってそういうもんですよね。

2013/04/10

ヤンキーのたからもの

息子が寝る前に話し出したことによると

「ママ、世田谷公園の脇の駐車場はね、ヤンキーたちの、すみかなんだ。」
「へー。」
「そこでは、ヤンキーが、ムダ毛で作った大きなツボを守っているんだ。ファイヤーソードや...あ、ごめんママ電気って英語でなんていうの?」
「エレクトリック」
「エレクトリックソードで。」
「へー。なんだそのへんなツボ...中になにが入ってるの?」
「ヤンキーのムダ毛。」
「wそんなもん、目ぇ盗んでもやしちまえよ。」
「だめだっ!そんなことしたら、オラオラになっちゃうよ....そんなゴミでもヤンキーにとっては、たいせつなたからものなんだ。」
「そうですか....。おやすみなさい。」

とのことでした。



ヤンクロックの金字塔。今聴いても普通に良い曲(金字塔といってもこのジャンルには氣志團しかいません)。

2013/04/07

美魔女って尺度は、対女性に限定された価値観なのかも

「このおばさん、よく出るよね。」

と、江角マキコをテレビでみかけた息子がずばり言うのです。

私としては、テレビで目にする江角マキコは、おばさんと言い切るにはちょっと遠慮しちゃうような、若々しさがあります。
そこで、息子に「この人はいくつでしょうか」と、テレビに女性がうつるたびにきいてみました。

剛力彩芽 20代前半
森三中 大島 どうでもいい
井川遥 30代前半
黒木瞳 ばばあ
お前の母親 無回答

酷いですね...
つまり、我々がいくら「いくつに見える」とか「美魔女だ」とかいっていても、その本当の年齢については子供の目にはバレている。ということなのでしょうか。
現代の画像処理技術の沽券にも関わりますから、息子に、その見分けポイントをきいてみました。
しかし回答はたったひとつ。

「はだつや?」

えー。

それって、ぴかぴかしてるってこと?テカリとは違うの?
みたかんじは、テカリとおんなじだよ。でも、光りかたがちがうんだよ。

だそうです。
なんか、美容に金をかけたところで、もしかすると、かんじんの男子の目などは、ごまかせてないのかもしれないですね。
美魔女って尺度は、対女性に限定された価値観なのかもしれないですね。

※ちなみに白人など欧米系については「30代だと思っても20代であることがまれにある」という理由で自信がないとのことでした。