2013/11/27

40代デザイナー(女)体のお悩み

40代は思春期です。ホルモンバランスが崩れます。
ホルモンとはなんなのかよくわからないで言ってますが、とにかくバランスが悪いです。
ただ、大人になって経験と知識があるせいで、子供の頃のようにわけもわからず巻き込まれているのでなく、冷静に変化を観察して分析できるようになりました。
参考までにその状態をレポートします。

クリエイティブな活動をしているとき、新しい企画を立案するときなどは、自意識を過剰にして主体的にアイデアを繰り出したり、工夫を尽します。
この期間の私のテンションは非常に高く、自信満々で、自分が世界を変えてやるからお前ら全員黙ってついてこいやくらいの気持ちになっています。

結果、体にも変化が現れます。
まず食欲がなくなります。子供がいるので子供用には料理をしますが、わたしはキッチンに立ったままでちょっとつまむだけです。あと、睡眠欲がなくなります。寝る時間があるくらいなら作業を続けたい。早く出来上がりが見たい。という気持ちになります。
そして食べないし寝ないせいか、痩せます。顔もスッキリしますし、体も軽くてスタイルもよくなるしでノリノリです。

そうやって調子にのっていると不具合が起こってきます。
極端に協調性が無くなるのです。
そればかりかやや興奮気味に「自分は正しい」と考えているもんで、親しい関係の人々の「正しくない姿」にガマンができなくなります。結果、相手の間違いを正面切って指摘したり、気に入らないことを並べて不満をぶつけたりするようになります。
さらに自閉して「誰も私のことをわかってくれないの」とかんがえるようになります。

ここまできてやっと「あ!思春期なう♥」と気づくのです。

でも大人だからテストステロンのせいだということがわかります。
闘争本能や孤独願望はテストステロン(男性ホルモン)が優位になった症状だわ。と。
中学くらいで男子が盗んだバイクで走りだすのも芽吹きだしたテストステロンが脳内で暴れているからなんですね。
で、40代の場合、壮年期より体力でごまかしが効かないせいでか、ホルモンの均衡を欠いたときの作用が中学生と同じくらいのインパクトで来るようになるそうです(婦人科の先生談)。
クリエイティブな生活を興奮気味に続けているのは楽しいし良いのですが、イライラしたり、攻撃的な状態が続くのは望むところではありません。そこで私は大人の力でそれを修復しようと努めます。

女性ホルモンを分泌してホルモンバランスの均衡を取り戻そうとするわけですね。
薬を処方してもらう方法もありますが、ケミカルな手法は抵抗があるのでだいたい漢方とか食品でエストロゲンを誘い出そうとがんばります。

するとどうでしょう。あの時の攻撃欲は何だったのかしらー。ウィー・アー・ザ・ワールド。
みんなで手を取り合って平和を守りましょう(・ω<)
と、あっというまに気分が変わるのです。
そして素晴らしいことに他人には当然のことながら親しい人々にも寛大(むとんちゃく)な私が戻ってきます。おかえりなさいエストロゲン。
おかげでお母さんモードにもすぐ入れます。夜は家でゆっくり手の込んだ料理を作ったりして、子供と一緒に楽しんだり、休日は自分勝手にジムで体を鍛える欲も減って家事に専念したり。人の幸せはわたしのしあわせ。このまま仏になってしまいたい。なーむー。
なのもつかのま。いいことばかりはありゃしない。困ったことにはこのあたりでまた体に不都合が生じます。

まず、太ります。食べたり食べさせたりするのが楽しいので体重が増えます。テストステロン優勢期には全くなかった「甘いものが食べたい欲」も手伝って。
そして眠い。
なんか、すごい寝るようになります。朝5時より前に起きるのがしんどくなります。
今ならわかりますが、仏像がウトウトしてるみたいにみえて、しかも体つきが下っ腹ポッコリでどことなく女性っぽいのはそのせいか。と。
ピースフルな精神状態は眠気と腰回りの太さに宿るか。と。

うーん。どうしよう。太るのやだなあ。
でも攻撃的で孤独願望が強い人間になるのもいやだなあ。

ということで、今後はどうにか修羅と仏の間を高速で行ったり来たりすることであたかも1つに見えるような戦略を取って行きたいと思います。

と、イラついて人様に当たり散らしたことと怠慢で太ってきたことを頭いいふうに正当化するのはこのへんにしとくか...。外的要因のせいにして癒されました。明日からがんばります。




金が欲しくて働いて眠るだけ〜

2013/11/24

女性もどんどん働いたほうがよいというわたしなりの考え

トシをとったもので、若いデザイナーさんなど制作に携わる女性から「結婚や出産なども視野に入れると女性が責任持って仕事を続けることは、よいことでしょうか」といった質問を受けることがまれにあります。
個別にお話するときは個別の問題に対して一緒に考えるスタンスなので、あまり自分の話はしないたちなのですが、この機会に自分の考えを書いてみます。

結論からいうと、仕事の種類を問わず、女性ならなおさら結婚しようがしまいが仕事はしたほうがいいことのほうが多いと思います。

マイクロクレジットの創始者、ムハマド・ユヌスが
「人間は本来がアントレプレナー(新しく事業を起こす人)であり、古来から自分の身ひとつを戦略的に守る能力がある。
と言っていたとおり、なにも起業せずとも人は自分の力で身を興すことができる。と私も信じています。
自分の手で自分を活かしているということが実感できると自信が持てるし、何より自分が何かをやったり、やめたりするとき(生きるってやることとやめることの決断の繰り返しですよね)主体的に決断ができるようになるのです。また、自分が自由であれば、他人の自由も簡単に認めることができるようになります。

自由の解釈はアメリカの第三十五代大統領だったケネディの就任演説がもっともドンピシャで
「国家があなた達のために何が出来るかを問うのではなく、あなたが国家のために何が出来るかを問うて欲しい。(中略)最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達があなた達に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」
といったとおり、まずは自分自身の力をみとめ、活用する意思を持つこと。その前提がひとの関係を平等にするようすを自由というのですね。
仕事をし、生計を立てるということは

仕事をすれば、お金が手に入る。
お金があったらどんなものでも自由(気まま?)に手に入れることができる。

という、狭い視野における等価交換的な話ではなく、じつは、もっと重要な、自由と平等に関係するトピックなのだー。と、私は考えています。
いろいろ困難は想定できるにしても、女性男性問わず、こうした視点を持つのはわるくないんじゃないかな。
自由と平等ってそんなにいいものなの?
と疑問に思うかたもいらっしゃると思います。
わたしとしては、自由と平等のご利益を十分享受して生きていると感じています。
一番のご利益は「悩みがあまりない」ことでしょうか。
なにしろ、自由と平等の精神のもと、常に「納得」して、自分の進むべき方向性を「選択」していると自覚していますから「後悔」がない。

あと、女性の場合、出産とか結婚は人生から主体性を奪われるきっかけになると思いがちですが、子育ては(ばあいによっては結婚生活も)自分の人生より長く続くことではありませんから、自分が後悔しない環境をつくるほうが大切かもしれませんよ。

後悔がないというそれだけでも、わたしが生きるうえではとてもありがたいことだと思っているのです。

2013/11/15

釣り記事に重要なのはプレーヤーじゃなくなったときの非リアルさ

Chikirinの日記:大企業のほうが成長できるとか完全にウソ
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131113

という記事が話題だったのでなんとなく読みました。
ここで論じられている内容の是非については、このトピックに特に興味がないので考えていないのですが、書き表しかたについて興味を持ちました。
と、いうのもそれが、数ヶ月前に注目された

週刊現代Online:曽野綾子「私の違和感」 何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員たち
http://kodansha.cplaza.ne.jp/wgendai/article/130819/top_02_01.html

に似たところがあったからです。
それは

1.記事の筆者は記事のテーマに関わる「今」については当事者的な情報をもってないように読める
2.どちらも自分自身の過去の経験を引き合いに出しているが過去すぎて例として機能していない

の2つです。
ただ、物議をかもすのが目的だったわけではないとおもいます。結果的にかもしてしまったんじゃないかしら。

で、この2つが揃うと1つの想像がかもされてきます。

・筆者は記事で取り上げた内容に関心がある人を自分の考えに迎合させることが目的であって、記事の主題についてリアルに悩んでいる人の手本になろうとしているわけではないのかも

で、上記の想像はありきたりの風景ではないでしょうか。いろいろパターンがあるのですが、これらはまさに「俺が海外赴任してた頃はよ..」で始まる昔すぎて参考になんない中年オヤジの思いでトーク。とか。

本当に社会の中で(ビジネススキルを?)成長させる方法について自分ごととして考えている若い人は、例のブログに必要な情報がないことくらいすぐに分かるとおもいます。
また、子育てと仕事の両立にマジで悩んでいる女性がくだんの記事を読んだとしても、問題解決のヒントが無いな。とそっとウィンドウを閉じたはずです。

問題を抱える当事者にとって有益な情報は、やはり同じことに今悩み、解決をひねり出そうともがいている実践者(プレーヤー)のリアルな体験だけでしょう。
とはいえ、プレーヤーでない立ち位置からお話だけで影響力を行使するという仕事もあるので、そういう意味ではすばらしいスキルだなあ。
ともおもいました。



2013/11/10

萌えキャラ推しはひっそりが美しいのよ

Internet Explorerを擬人化したら萌えキャラになってました。
ちょうど5年前、わたしもIEの擬人化はしたんですけど、今回の結果にカスリもしませんでした。

http://builder.japan.zdnet.com/html-css/20385937/
http://yanorin.blogspot.jp/2008/11/ie.html

こいつがオフィシャル
https://www.facebook.com/internetexplorertan

かわいいですね。
台湾やシンガポールで始まったと言われるMSの萌えキャラ手法に日本が乗っかった形という話ですが、そう簡単に乗っかっていいのか!と、言いたい。
おっぱいちょっとおっきい、きゃわいいドジっ子のIEデス。という文脈を「一般コンシューマ」に押し付けることになるとはどういうことか、ちゃんと想像したのか??と問いつめたい。
私には、ドジっ子を全面に出せば、話題性につながるし、男社会のIT業界向けなら、過去のグダグダだったIEのブラウザとしての性能も許容されるでしょ?と言われているようにしか思えない。

幼稚なり。MS。
萌えキャラ好きを、なめなはんなや..。

萌えキャラの定義とは、その画風の特性みならず「男性目線で創造した理想的な女性のありよう」という位置づけも間違いでないとおもいます。
いわゆる「二次元」というジャンル全体がその定義にはまるもので、擬人化ジャンルの萌えキャラに至っては男目線が十二分に加味されたものであるのが普通です。
たいていが男性に対して従順で、子供のように庇護を求める存在でありながら体は成熟しているという矛盾を抱えるキャラだったり、あるいは華奢なのにやたら強くて剣一本で巨人を倒したりするような設定もあります。まあそういう造形的な特性の好みは人それぞれですので好みの数だけ設定があります。
そして今回のこの、「男性目線によって作られた架空の存在」と定義できるキャラとして、藍澤祈は十分か?という話ですけれども...

ダメですね。正直。男の夢をナメるな、と。
真面目な話、私は萌えキャラはもう日本の伝統的な文化じゃないかと考えていまして、文化認定された記憶に新しいものとしては近松門左衛門の「曾根崎心中」があるとおもうんですよ。
曾根崎心中って文楽になってますけど、文楽ってお人形なんですよ。曾根崎心中自体、門左衛門やっちゃったな。ってくらい、男が考えた最高の女の理想型なんですよね。私中身が男なので分かるんですけど、近代化された世の中で女みたいに本能に従うって男には無理なんですよ。いろいろあるんで。

「色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし..」

ってのはもう非現実的っていうか、むしろ男目線のファンタジーなんですよね。
そのファンタジー、担えるのは生身の女じゃなくてお人形なんです。
文楽ってもう人形作るのも、動かすのも、歌うのも、フルで男ですよ。文楽Pは全員メンズ。これはもう、ほっとこう。って思いますよね。逆にうらやましいですよ。男に生まれてよかったね。と。
それくらいクンクンに理想家した世界。で、そういう簡単には犯せない世界と地続きなのが、萌えだと勝手に位置づけてた私にとって藍澤祈ってなんか軽いんですよね。
それでいいのか?萌えファンよ?と。
で、結論としては、一般化しては逝けないと思うんですよ萌えって。
大きい会社が運用費使って萌え発信するって、なんか、ピュアな理想が犯されてる用に思うんですよね。カルチャーなめてるっていうか、そういうところが幼稚なんじゃないの??萌えキャラってのはひっそりたしなむのがオツじゃないの?と、思うわけですよ。

あーすっきりした。



心中シーン。
曾根崎の思いでは、大阪出張時、当時18キロだった、眠りこけた息子を背負って曾根崎の商店街を歩いたことでしょうか...一泊二日の荷物と息子、さらにMacBookProを担ぎつつ、通りかかったお初天神に向かって「なあお初さんよ..彼氏といまも幸せなら、その幸せを分けてさ..ACアダプタだけでいいから...だけでいいから持ってくんないか..」と、切実に語りかけたことが思い出されます。もっと軽くなれ!AppleのACアダプタ!!





2013/11/09

セックスは互いを知る手段でもなんでもない

ペドロ・アルモドバル監督の「トーク・トゥ・ハー」という映画があります。
台詞や情景の美しさが洗練されていて、総合芸術分野の映画として歴史に残るはずの作品です。
闘牛士として心も体も剣のように尖って生きた女と、ダンサーとしてふくよかに、柔軟に生きた女とがそれぞれ昏睡し、男に看護される。そして日々起ることへの対処の違いによって、全員の生き様が分岐していく。というのが筋です。
ダンサーをケアする男は彼女にずっと片思いしていて、長く自分の母親のケアもしていたのと少々発達障害的なところがあることからか過去に一度もセックスはおろか女性とつき合ったことがない。
彼女が事故で昏睡したことを知り面接の末ヘルパーとして雇用された男は、毎日彼女に話しかけ、数分おきにマッサージし、日にあて、身なりを整え、思いや言葉でなく一分一秒行動によってケアしていく。新生児に対して母親がやるのと同じことをする。わかろうがわかるまいが話しかけ、さわり、笑顔をみせる。

となりの病室に担ぎ込まれた昏睡した女闘牛士にも男が付き添っている。傷心の彼女をなぐさめたのがきっかけで関係がはじまったこの男は「彼女がそうしてほしいかどうか、会話ができない今となってはわからない」という理由で、ケアを躊躇している。
その男に、ダンサーをケアする男は「君は女を分かっていないね!女には一方的であれ、会話が必要なんだ。なんでもいい、話しかけて、気にかけてあげることが大事なんだ」と笑ったとき、闘牛士の付き添いが言った台詞が

「セックスをしたこともないお前が女の何を知っているっていうんだ!」

です。映画を見ればわかるのですが、人種文化性別問わずこの映画を見た人間のほとんどがここで

「わかってないのはお前だよ!!」

とツッコむように、この映画はできています。
セックスはこの映画の非常に重要なファクターなのですが、「互いを知る方法」としては使われません。
セックスはなんかもっと、個人的な文脈に支えられて至る行為というか「心も体もひとつになってあいしあう」的な言葉は、もしかすると、軽薄なエクスキューズなのかもしれんと思えるほどです。

そもそも愛情や慈しみの発動というのは、相手が男だからアリ、女だからナシというものでもないでしょう。
答えはないんですが、そんな感想を持ちました。

ところで女闘牛士には別の男がケアを名乗り出てきます。
その男は過去に彼女とペアを組んでいた男ですが、名声を得ると彼女のもとを去り、関係を解消しようとしました。彼女が昏睡した理由はその男と関係があるのですが、それが突然彼女の元に戻り、いままで面倒を見ていた男を追い払うのです。これからはずっと一緒だ。とかいってメソメソ泣きながら。その後間もなく女闘牛士は目覚めないまま死にます。
男と対等に渡り合い、女性らしく生きなかった女闘牛士が、結果、本当の意味で愛されずに死ぬというのは救いが無いですが、女性らしいダンサーとのコントラストもよく、彼女の登場シーンはすべて大変美しかった。迷い、間違えながら生きる人間のすがたは美しいのです。

2013/11/04

脅威の洛中洛外図観てきた

東京国立博物館の京都展、洛中洛外図の前期展示が今日までなので朝、仕事前に行ってきました。
特に、狩野永徳による国宝「上杉本」が今日で入れ替えです。普段は米沢市上杉博物館にあるので興味のある方は是非。
洛中洛外図というのは「手描きの京都ストリートビュー」というか、小高いところから京都を俯瞰して描写した屏風絵のことです。桃山時代に朝倉家が最初に発注してからというもの権力者の間でもてはやされ、現存する作品は7点。京都展ではその全部が展示されます。
6枚折れ2セットで1組の屏風に異常なまでの執着心で京都の建造物、風俗が細部にわたって描きこまれており、上杉本に至っては2500人も人間が描いてあるとか。

屏風絵はネット画像なんかで観るとわかりますが、しろうと目にも建物がなんとなくやや後ろに引き倒れたような、俯瞰図のはずなのにアオリ構図っぽく見えてしまう特徴があります。これはたぶん屏風絵がもともと座って観るものであるために、見上げる視線に合わせて描かれているからだろうと想像します。
あと、よーく観ると屏風のエッジの折りの角度と、描かれている建造物の軒のラインの角度とがびたっと合わせてあるのもわかります。この点に注目すると、軒などの横の線と、柱などの縦の線とがグリッドをなしているのが見えてきて、平面図であるはずのモチーフがグリッドごとに立ってくるようにみえてきます。絵というよりも、屏風というモノの機能も込みで計算して作ってるのが洛中洛外図のすさまじいところ。室町時代からエグゼクティブは、高層階にオフィスを構えて、窓の大きい自室から都会を見下ろすような気分に浸りたかったんですね...。

ところで京都展の個人的な目玉は二条城二の丸御殿大広間四の間の「松鷹図」がまるっと展示されてるところです!
狩野探幽の豪快な筆のうなりもきこえんばかりの迫力であります。わたしはガチガチの形式美を自ら作り、表現上の制限と個性の発露を高次元でせめぎ合わせる狩野派のなかで「オラオラオラー」と、かたをやぶる探幽が最高に好きなんですが、今回松鷹みてはっきりわかったんですけど、探幽の筆は井上雄彦によくよく似てませんでしょうか。妙心寺の龍雲図的な作品、そろそろ井上さん描けるんじゃないでしょうか。

全国のお寺さん、是非ご検討ください。

おまけ
もう1つ洛中洛外図の面白いところは、大きい作品だと作るのに10年くらいかかっちゃうところ。1つの画面構成に異なる時間軸を継ぎ接ぎしているわけですね。そう考えると、同一人物だけど3回出てくるとか、最初出てきたときは赤ちゃんだったけど次は小僧。とかありそうです。



やだ!ほんとに描いてる!!と全世界が驚嘆してもおかしくない。

2013/11/03

嫉妬心から開放される方法を見つけました

塩野七生のエッセイ集「男たちへ―フツウの男をフツウでない男にするための54章」の中に、「嫉妬」と「羨望」の違いをシェイクスピアの「オセロ」を題材に説明している章がありました。うまいこと整理されていて素晴らしかったのでその視点を借りて嫉妬心について考えたら克服法を得るに至ったので説明します。

オセロの筋をひとことで要約すると「妻を失う恐怖に狂ったオセロと、オセロの地位を羨むイアーゴの自滅物語」です。
つまりオセロは嫉妬心で、イアーゴは羨望で潰れるわけです。
ここで塩野さんの視点を借りて嫉妬と羨望の違いを整理すると

・嫉妬は「持っているものを失う恐怖」
・羨望は「持っていないものにたいする欲望」

となります。なるほど両者は性質が違う。

たいていこの2つは合わせ技で関わってきます。たとえば
「恋人に、経験が豊富で容姿もよく、かつ優秀な異性の友人がいることを知ったときの漠然とした不安」のような状況を考えてみましょう。その不安には

・恋人の関心がその人に移るかもしれない(嫉妬)
・その人は自分より優秀かもしれない(羨望)

という2つの感情が含まれます。つまり嫉妬と羨望とはSとN極のごとく影響しあってドライブするわけです。
この場合嫉妬は他者を傷つけるための具体的な行動と地続きで、羨望はなんらかの策略を凝らさすモチベーションになりやすいです(ストーカー殺人とかはその状況が極まったかんじです...)。
嫉妬と羨望から開放されるためあえて「人に関わらない」という道を選ぼうとする向きもありますが、よい人間関係からしか幸福が得られないことも証明済みらしいので、それもまた不幸なことです。
私は是非「人と関わりながらも嫉妬しない、羨望しない」ことを目指したい。

そこで私は考え、結論に至りました。

どちらも「感情」から起こってくることなので、これを「理屈」で解釈し、克服するのは無理。

というわけで、私は心理面を分析することをあきらめ、嫉妬や羨望が身体に及ぼす影響について観察することにしました。
実験として嫉妬心が生まれるシチュエーションに自分を置いてみると次のことがわかりました。

嫉妬からはまず胸がドキドキして、心臓に血が集まるような感覚が味わえました。そのあと動悸が胸からヘソのあたりに落ちるような感覚がありました。
羨望では頭の両脇が締め付けられるようなかんじがあり、そのあと頭の血が下のほうにぐーっと落ちていくように思いました。ただ、どちらの感覚もへそから下には行かず、へそのあたりに溜まる感覚がありました。

ほうほう。へそ、やばい。へそ、狙われてる。

そう自覚したとき閃いたのが「ヒクソン・グレイシー」です。
いや、ヒクソン好きならだれでも知ってるとおもいますが、ヒクソンは精神を「呼吸法」で操ることに長けていることは有名ですね。いわゆる「火の呼吸」というヨガの一種ですが、これは息を鼻から全部吐き切ったあと、さらに肛門と性器を引っ張り上げる感覚でもっと吐く。という書けば簡単だけどそう簡単でない方法で呼吸をコントロールするというアレです。
アレ、実は、嫉妬と羨望という2つのクリティカルなネガティブ要素を排除できる唯一の手段なんじゃないのか?と、私はヘソつながりで仮定したのです。
いや、たいした深く考えてないんですけど、あの嫉妬のときの「ぐーっと血と一緒に下がってくる何か」をやり過ごすには、普通にヘソからその作用を外に出せばいいんじゃないの?(やれるもんなら)。と、思った次第です。

実践あるのみ!と、いうわけで今日からなんとかヒクソンの呼吸法に精通し、私も今日から400戦無敗伝説を築こうと心に決めました!
免疫力もあがるらしいよ!でも、難しくて全然できねえ!
しかしよく考えたらこれって美木良介式、必ずやせる 「ロングブレス」ダイエットじゃないのかw?
どっちにしてもいろいろ健康によさそうだからヒクソンを見習って嫉妬と羨望にまみれた人生からの脱却に挑戦してみます。
パパウパウパウ。



3:10あたりから出てきます。ちょっと見たかんじ、無理っぽいです!