2013/06/26

零戦やブラック企業は国民が一丸となって作りました

百田尚樹の「永遠の0(ゼロ)」を読み終わりました。
第二次世界大戦中、天才的な零式戦闘機のパイロットだった宮部久蔵が、神風特攻隊で死ぬまでの生き様を、当時を知る人間の証言で表したものがたりです。
大戦モノというと、まっすぐな平和へのメッセージに満ちていて、どっかヒロイックで、それだけにちょっぴり説教臭いけど、結局他人のつらい思い出話。のように、物語と自分の距離感が縮まないまま終わることがほとんどでした。が、この話はそういう要素が全然なかったです。
話は宮部の孫が、当時の知り合いの証言を集める形で進めていきます。証言なので宮部に対する評価が一定しない。でも、そのせいで逆にぶれない彼のアイデンティティが尖り、天才パイロット宮部というキャラを身近に感じさせます。

またこの物語は「特攻隊はテロリスト」とか「特攻隊は日本軍という組織構造が作り出した哀れな被害者」あるいは「愛国心のかたち」みたいな「なんか神風特攻隊でググったら出てきました」みたいな小理屈仕立ての結論付けをすべてすり抜けます。
隊員の生活の細部や事態の執拗な描写を読んでいると、そんな抽象的なことを言ってわかったような気分になっているやつをブン殴ってやりたくなるでしょう。

ところで本書では要所要所で零戦の性能について触れる箇所があります。零戦は当時世界最強の戦闘力と小回りで、ドッグファイトでは無敗という評価の高い戦闘機。というのはよく知られたことです。文中でもラバウルからガダルカナルまでの1000キロを片道3時間で侵攻する作戦について書いていますが、当時1000キロ連続飛行できるのは零戦くらいなものだったそうです。が、文中でははっきりと

「人間が乗ることを想定して作られていない」

と、書いてあるのです。そもそも。
戦闘機の設計は、操縦する人間が50分程度しかその集中力が持たないことを前提に作られるのが常識のところを「侵攻できる距離と戦闘力」を評価基準にして作られた零戦は、そもそも人が乗ることを前提としていない。
しかしそうして生まれた零戦に、人間が乗ることを想定して作戦が立てられたと。
また、徹底的に軽量化したボディは防御性能が低く、背後から撃たれたパイロットは死んだそうです。

日本軍の司令部が犯した「失敗」の原因が、司令部の「人事的な評価基準」と、その作戦の現場で重視しなければならない「成果」とにズレにあった。というのは有名な話ですが、武器さえオペレーションを度外視した設計になっていたんですね。
この物語の真ん中には「システムを設計する側の人間に対するどうしようもない怒り」があって、この零戦の性能のあたりなどはもう舌打ちしながら読んでました。

しかも、全然こうした構造が終わってない。
人間がオペレーションすることを度外視したシステムが、未だあっちこっちにある。安い服を売って販路を拡大するために、そろばん弾いて出した結果が徹夜勤務とか、安い仕事いっぱい取って気づいたら3日のうち10も20もやらなければ終わらない運営体制とか、数字に人間が合わせることを前提とした仕組みがいまも山のようにある。
戦争は70年ちかく前に終わってても、そのときの仕組みが全然終わってない。

なんでだろうと考えたのですが、私はこの物語を読んでその理由がわかりました。
それはやっぱりそういう仕組みを作った人間のせいじゃないです。そういう人たちにいろんなめんどくさい判断を任せきりにしてきた私のような「現場好きで、さほどロジカルでない人間」のせいです。

数字が苦手な人間は数字が得意な人間に判断をゆだねがちです。
なぜならいつでも組織的な判断は「説明材料を集めるのがうまい人」がやると、うまく進みやすいからです。
また、論理思考の人は論理的な話しか信用しないです。すると論理思考者どうしが固まりやすくなります。
そして、水と油が分かれるみたいにして、戦略担当と現場が分かれていくのです。

で、日本だけが長いことこういう状態であり続けるのは不思議なのですが、私がおもうにシステム側も、現場側も、日本においてはどちらも同じくらいたいして客観性がないからじゃないでしょうか。
数字に基づく判断のことを「客観的な判断」と、理屈では言いますが、精神的にはそうではないです。感情的な論理家が「自分は間違っていない」ことを証明するために執拗に数字を出してくるようなことは珍しくないです。

で、問題は、そういう人が悪いんじゃないんですね。
数字に強い人に戦略を丸投げしていた私が悪いんですよ。
っていうかもう他人が作ったシステムとかプラットフォームとかに頼って生きるってことをやめちゃって、愛と自由を謳歌するってのが真の未来な気がしてきました。
ぜんぜん戦争と関係ないところまで飛躍しましたが、正直それこそが、この作品から得た感想です。

2013/06/22

成果は望みが断たれた後のびるらしい

3週間前くらいに植えたゴーヤの葉がもう10枚くらい茂ってきたので摘心をしました。
つるをのばす植物を育てるのが初めてだったため、この「摘心」というテクニックを実行するにはちょっと勇気がいります。
摘心は、ある程度茂った「親」のつるの、今まさに上へ上へのびんとする若い先端をむしってしまうことです。すると、そのうち親つるのどこかから子つるが出る。結果的に収穫量の伸びが期待できる。

親が若すぎたり、親の生育状態に問題があると、摘まれた親が死ぬこともあります。生育状況により数回行うことで、1本だったつるが枝分かれして立派な緑の壁になるのですね。
もちろん摘心しなくてもそれなりに親つるのポテンシャルに見合った成果は得られます。ただゴーヤは雄花と雌花がありますから、親つるだけではふたつの生育バランスが保てない可能性が高くなる。そこでできるだけつるを増やして花を付けさせ、雄雌の勢力を均衡させてやろうとする行為なわけです。

「唯一の可能性」をぶっ潰すと案外そこからわき道が出てくる。わき道につぐわき道が多様性になって、なんとなく全体のバランスがうまくとれるようになって、最後はおいしい成果がうんと得られるのかー。みたいに考えると、極端な話、
「唯一の望みと思っていた何かが、ある日突然断たれる。」
ということも、なんか意味あるんだろうなー。なんてむしったつるから出る立派なゴーヤの香りを嗅ぎながら思いました。

人間の日々と摘心の違いは「終わって」からおこる世界の変化が子つるが生えるかのごとくわりとゆっくりなせいで「終わったこと」と「多様化したこと」の関連が見いだしにくいことくらいだろうか。それに人間失ったことのほうに執着するらしいですから、よけいですなー。

摘心しながら、絶望というのはあんがい無駄な感情なのかもしれん。と思いました。
あばばうぶー。



2013/06/18

UIにおけるシンプルの価値と上岡龍太郎

フラットデザインですね。
iOS7のUIの画面キャプチャーを見ながら、Androidが前からやっていたよね、とかWindows8もその流れだよね。といった話題に花を咲かせたここ数日でした。
やっぱりシンプルを極めるとこうなるのかしらね。もっこりしたUIとか影とか立体感がシンプルじゃないよね。
的な話には「画面キャプチャーだけでいろいろ言っている」という違和感を超え、何かしっくりこない気分にさせられていたものです。
そんなときわたしが思い起こしたのは、桂三枝(現:六代 桂文枝)のことでした。
桂三枝といえば「いらっしゃ〜い」です。

「いらっしゃ〜い」

字面だけみると、ただの挨拶というか、だからどうしたのか。と、疑問さえ湧いてくる。
だがしかし、この言葉が三枝から繰り出された瞬間、人は笑うのです。
たぶん、三枝といらっしゃ〜いの歴史を知らない子供でも、笑うでしょう。
そして三枝以外の他のだれかがトレースしても、エモーションは伝わらないとおもいます。
そんなことを、実際iOS7に触りながら、感じました。このUIはお笑いにおける「いらっしゃ〜い」の境地だな。と。

いやー。ものごとは人が作るものですよね。
で、いろいろ考えていたら、昔なんかの番組で上岡龍太郎が「芸人の優劣は3分で決まる」と言っていたことを思い出しました。
3分間のトークで前の人間を抜くのが漫才の競争のしかただ。そぎ落としても面白いことを見せろ。とかなんとか。それを聞いて、他の仕事は楽なものだ。と思ったのでした。漫才も字面や絵面だけで語れない芸ですが、UIっちゅうのも似た意気込みは通用する世界なんじゃないかと考えました。しんどいけど。
デザインも漫才も人間相手の商売。理屈ばかりに囚われていてはいけませんなあ。


「いらっしゃ〜い」にかかるとニシナリですら「いってみようか」という気持ちにさせられます。

2013/06/12

冒険が終わった男の行動とは

僕、ワンピースの最終回、考えたんだ。と、小学四年生が。
まず、ゴールド ロジャーのいう、この世の全てってなんなのか。まちがいなく金とか、金目のものではない。たぶん、綺麗な風景とか、まあ、写真、かな?
これは魚人島にいったときー。とか、これはあんときーみたいなロジャーの写真ね。

(思い出のアルバムかよ)

で、あとはそれぞれ、いろいろある。たとえばサンジはオッパイでできた三途の川を渡ったり、あとは、みんな帰るよ。

(どこに?)

生まれ育ったとこに。

(えー?!冒険でみつけた新境地に定住しないの?)

しない。冒険が終わったら、男は家に帰るよ。ぼくもそうする。

(え、冒険で見つけた場所に定住しないの?なんだかんだて人間関係とかできるじゃん)

いや、冒険者はしない。ただ、死ぬまで旅を続けるってやつはいるとおもう。ルフィーがどっちなのかはわかんない。でも、目的をはたしたら家に帰る。てのがふつうじゃないかなあ。

と、素で言うので凄く面白かったです。

2013/06/09

HTMLとデザイン


  • 元ラブホの管理人で現在は教祖兼デザイナーの左腕さん
  • T大で地球観測データを統融合連携させたりブラウザを調教したりしているぎゅーくえさん
  • 白いデザインはまかせろ。ケンヤの弟子の澤田さん
  • マウンテンビューでパスポートを盗まれたマンのとんぷうくん(オンライン参加)
  • ブラウザ好きをこじらせて開発している人より詳しいかもしれない矢倉さん
  • moeclickこと2ステッパー大王のSilvanian Familiesさん
  • そしてG社最大のMCで美学校生のkotarockさん

という豪華なメンバーで「6月8日はHTML DAY」というキャンペーンに乗っかり、「HTMLとデザイン」というお題を設けて飲み会を開催しました。
生でダラダラHang Outもするなど、楽しかったです。
それぞれが持つ「今、ウェブの土俵でデザインするということ」に関する持論をストラテジックな観点ナシ、オチもナシ。という態度で語るというとても素敵な時間でした。
本当にいろんな話をしてそれぞれぜんぶ心に残っているんですが、よいどれた澤田さんが語ったこのくだりがいま印象に残ってるかも。

さわだ「こないださあ、ほら渋谷でさ、ワールドカップ決まったときの、大混乱のあれをうまくやったDJおまわりさん?」
やの「DJポリスのこと?」
さわだ「それそれポリス」
kotarock「それさ、正確にはMCだよね。説教上手でしょ?それDJじゃない。MCポリスでしょ?」
さわだ(スルー)「そのDJポリスがなにがすごいてさ、若者は暴れたいわけじゃん。うおー。ってもうそこらじゅうのもんを胴上げしようとしてるわけじゃん。そのベクトルをそのまんまにしつつ、制圧することなく、混乱を解消したわけよ。家に帰るまでがワールドカップですとかいって。みんなチームメンバーですとかいって。普通は制圧するわけよ。それじゃダメだって言って、こうしろよ。って言って。そんなんじゃうまくいかねえよ。こういうふうにしろよ。って。でもそういう態度が結局プロジェクトの進行の遅れを引き起こしてるとおもうわけですよ」
やの「急にデザインの話キタ」
さわだ「そう。相手のベクトルのまま、否定しないで落とし所に誘導するのって手間かかるようにみえて、俺の言うとおりにやれっていう態度よりかすごいスムーズに事が運ぶようにおもうんだよねえ。最近。そういうのできるひとが仕事できるひと。みたいなふうにおもうんですよねえ」
kotarock「合気道的な。相手のちからを利用して良い感じにするみたいな」
やの「あーそういう態度今っぽい。そういうプロセス今っぽいわー」

このあたりのやりとりをこれからは、ことさら意識してみたいと思った次第でした。
べつに、何にどうってわけじゃないですが、デフォルトでONの価値観としてってかんじで。


ポリスの曲で一番すきなんですよねー。
DJでもMCでもないですけど。


2013/06/03

聡明で才能に溢れる野心家というろくでなし

男性同士の以下のような会話があります。

生まれも容姿も中級ていどが理想の女というものだな。
おごっておらず、信頼できるしうわついていない。
下手に容姿がいいと浮気心に悩まされるし、気ぐらいも高くては面倒くさい。また、頭が良い女も考えものだ。学者のように博識で頼りになる女と付き合ったことがあるが、口臭がひどくて別れてしまった。女は外見より心であるが、極端にブサイクもだめだ。自分に自信がないせいか、疑い深くて面倒なのだ。中くらいがいいよ。

で、こりゃなにかというと、源氏物語の、はじめのあたりにでてくる「
雨夜の品定め」というくだりです。光源氏が友達とダラダラだべるシーンなんですが言いたい放題です。
「中級こそが優良物件」という鉄板の女性感って中世からあったんですね。
それっておそらく、真理なのでしょう。

おもしろいのは、このあとの人生で光源氏はフツーが良いとかいっときながら、中級(とはいえ庶民ではないが)の女性と付き合うも、小馬鹿にして、見下す性分が抜けず、長続きしないのです。

光源氏が唯一執着した女性は、死んだ母親にそっくりだった継母に、にてる(ややこいな)。という理由で10歳の時さらって育てて結婚した紫の上だけてすが、その紫の上でさえ最後は光源氏の女性関係の悩みからくるストレスで病死させてしまいます。

源氏物語からは、美しく、聡明で才能にあふれる野心家とは、けっして女を幸せにはしないろくでなしである。
しかしそれも含めて美というものですよなあ。
っちゅうことを学んだものです。

Simejiの入力テスト、おわり。

(ΦωΦ)フフフ…