2013/01/30

Google+で立派な墓穴を掘る


先日とある女性から、おすすめのスマートフォンアプリは何かと質問を受けました。

そんなときGoogle+というFacebookでもTwitterでもMixiでもないSNSがあるので使ってみてほしいという話をします(まだあんまりしられていないのです)。しかし私の説明が悪い性でか、どうも「使ってみたい」と言ってもらえたためしがありません。
それでも、Google+は女性にこそ使って便利な機能があると日頃感じている私は説明をするのですが、説明がいまいち女性に響かない理由が今回、何となく分かりました。
私の説明は以下のような感じです。

Facebookだとこっちから情報発信したいときその露出先を友達か、あるいは友達じゃないそれ以外の全部の人しか選べないじゃん?でもGoogle+はまずそこに溜まってる人間の中から自分の知っている人を選んでサークルってのを作ることができるの。例えば小学校の父母会関連とか、学外の子どもの知り合いとか、自分の職場関係者、自分の趣味の範囲に居る人たち、あるいは昔からの友達、親類縁者みたいな感じでサークルを分けて情報の公開範囲を選んだりできるわけ。ほら。つき合う相手によって話したいこと、オープンにしたい情報って変わるでしょ?

と、そこらへんまで話したくらいで相手の顔を見るとだいたいドン引き。そして不思議なことに自分自身も説明するに従って、また相手の不安を感じ取るだに居心地の悪い気分になってしまう。

なんというか、自分が卑怯な八方美人に成り下がったような感じ?

でも決してそうではないハズなんです。
人間だれしも相手に応じてコミュニケーションの方法を変えたいという欲求はあるはずですし、意図的に変えるほうが相手にとってもストレスがないうえに、自分も余計な気遣いはしなくて良いという意味で精神衛生上健全な環境が作れるはずなのです。

ただ、「相手を選んで発言する環境が作れる」という率直なベネフィットを包み隠さず語ることで

「それって秘密の多い、後ろ暗いマインドに与する道具では...」

みたいな空気をビンビンに醸して立派な墓穴を掘りまくってしまう。確かにわたしもふくめて女性は隠し事が嫌いです。自分には何でも明かしてほしい。という欲求はあたりまえにあります。でも、コミュニケーションにおける儀礼とは、態度やキャラクターをポジティブに使い分けることでありましょう。しかし、それは女性にとって認めがたい性質だとしたら。
そしてGoogle+を使う、認めることはその性質を認めることになってしまうとしたら...。


サービスの説明をすればするほど相手が興味を失ってしまうって凄い現象ですが、だからこそ説明をあきらめないぞ!と逆にモチベーションが上がってしまうのでした。

アガサ・クリスティ
「春にして君を離れ」

人間っていろんな面があるのねー。というしょうもなさを受け入れるほかない荒涼とした読後感。内省という行為の自己完結ぶりを見せつける、アガサ初期のミステリーでない珍しい作品です。



2013/01/26

男がデキる女を嫌う理由

親子でボルダリングをはじめたのですが、
小学生の息子のクラスにさっそうと転校してきた女子が自己紹介で「趣味はロッククライミングです」と言ったらしく、とても気にしています。
ボルダリングもクライミングも共通点あるから「ボクはボルダリングやりはじめたんだよ!」とかなんとか言って仲良くなってみたらどう?情報交換とかできるかもよー。と提案してみたところ

「いやだ。もうちょっと自分のレベルを上げてから...」

というのです。
へー。どうして?と、きくと...

「自分よりデキる女はいやだから..」

と。
ええー。女の子が自分よりなにか上手だったらナマイキだとかおもっちゃうから?とさらに質問をしてみたときの回答が...

「女ってね...自分よりデキない男を見つけると『ええーっ!こいつこんなこともできないんだってさああああ!』って大騒ぎして仲間を集めるんだよ。それで最終的にクラス全員に『デキない人』っておもわれるんだよ。仲間を集めるんだよ。デキる女は...。だからデキる女には油断がならないんだ..」

だそうです。

全国のデキる女子のみなさん。仲間を集めるのは...やめましょう。


2013/01/16

スマートフォンデザイン見本帳

スマートフォンデザイン見本帳というタイトルの新刊書籍を手がけました。
今回は新たにAmazon Kindle版など電子書籍にも対応しています。
いつも本職の合間を縫っての執筆になることもあり、例に漏れず1年ほど費やしてしまいましたが、今まとめておいてよかったと思える出来です。
アプリとは常に発展途上にある製品であるため毎日のようにその姿を変えてしまいます。ニーズの変化も考慮すると任意の今を切り取って個々のアプリデザインの価値を判断するのは難しいです。しかしとにかく画面を集めて分類する事はできる。そうすることで類型化した用途に対応する「ハズさない型」は見えてくるんじゃないだろうか。
そう考えてひたすらまとめたのが本書です。
資料として広く活用いただけることを願っています。

以下、本書の「はじめに」より。

スマートフォンのウェブサイトやアプリのデザインは、そのサイトやアプリを使ってほしいユーザー(作り手自身かもしれませんが)が持っている課題を解決するための形を持っています。だからこそ、課題の数だけデザインがあります。
どんなにデザインガイドラインがしっかり設けられているプラットフォームでも、課題が独自であればそのスタイルやデザインも独自のものとなります。
ということは、アプリやスマートフォンサイトをデザインするときはいつでもゼロから形を作り上げるつもりで臨まなければならないということです。
そんな手探りでのスマートフォンサイトとアプリのデザインを考えるための一歩にしていただくために、本書を作成しました。
この書籍は数あるサイトやアプリから見習うべき画面を切り出し、集めた物です。また、プラットフォーム固有のデザインに関する約束事にできるだけ縛られず、スマートフォンという小さいデバイスの中で通用するデザイン原則や、レイアウトパターンについての解説も含みます。
本書によって試行錯誤が多いスマートフォンサイトとアプリデザインの方向性をつかんでいただけることを願っています。また、日々変わりゆくスマートフォンサイトデザインのサンプル資料としてもお使いいただけることでしょう。
iOS、Android、Firefox OSに代表されるHTMLプラットフォーム、Windowsなど、スマートフォンサイトの領域は広がっています。ウェブデザインより新しく、ノウハウの少ないスマートフォンサイトデザインの世界ではありますが、デザイナーの工夫によってより使いやすく、楽しめるアプリやサイトが増えますように!

矢野りん デザイナー



2013/01/13

遊戯の4原則とSNSと21世紀の精神異常者

フランスの社会学者ロジェ・カイヨウカイヨワの著書「遊びと人間」(1958)は遊戯を原則的な四つの類型に分類したことで有名ですね。

その類型とは
「競争」(たとえばさまざまな球技のスポーツ、および将棋、碁など)
「僥倖」(ルーレット、その他のギャンブリング)
「擬態」(こどものゴッコ遊び、演劇など)
「眩暈」(スキー、スケート、回転遊びなど)
です。

たしかにどれも子どもの頃からなじみのある行為であり、だれしもやりたくなる、やってきたことですね。年齢問わず生活のなかで求めていることでしょう。
ソシャゲーとか、そもそもSNS自体こうした要素にありつけるしくみに需要が集まりますが、それらはこうした原則にちゃんと沿って作られているんだということがわかりますね。人間とは常に遊戯という褒美を求めて社会という規範に耐え生きているのやもしれませぬ。

が、そこに加えて以下の指摘があります。

それらの異常として
「競争」は規則無視の攻撃となり
「僥倖」は迷信に
「擬態」は分裂病に
「眩暈」は薬物嗜癖に
なる。

そうですか...。
リストで見ると刺激的です。でも、ですよ。SNS上のアクティビティが多い人って大なり小なりこの異常をすでに感じているんじゃないか...と思ってしまいました。

たとえばSNS内でちょっとした議論が持ち上がった時「私の方がその件についてはよく理解している」的な切り口で、論点から逸れても持論を執拗に展開しあうことでしっちゃかめっちゃかになってしまった話題に触れた時、「競争」の異常を感じます。

また、レアカードという実態のないブツに対してかりそめにも価値を感じてしまっている状態にも「僥倖」の異常を感じざるを得ません。それ、ほしいか?という。それそんなにだいじなの??と、ソシャゲをやっていない人にはその価値を信じることが難しいんじゃないかという点で。

SNSでは一貫して明るく前向きで他人に気を使う活発キャラだが実際一緒に仕事していると利己的感情的になることのよくある子どもっぽい人だったな..とか、ツイートは無欲で清純だけど実際の行動はどん欲でエロい人なのな..といったネット上の人格と本人との乖離は今や珍しいことではないですが、「擬態」の異常ですね(分裂病は現在統合失調症に名称変更されてます)。

「眩暈」の異常は物理的視野に対する現象ですからコミュニケーションベースのメディアでは発現しないと思います。

こうやって上げて行くと荒涼とした気分になりますが、異常と定義されなければ、結構普通なこととしてSNSユーザーなら誰しも受け入れてきた状況なんじゃないかとは思います。だってもともと人間が生きる上で必要とする「遊戯」の成れの果てですから、そこに踏み込んだモチベーション自体は異常ではない。ただフィジカルから離れた遊戯はかくも残酷に精神を異常に運ぶということには私も無自覚でした。

ただ、そろそろと違和感を感じている人もいるはずです。
いや、そういうことに疲れたり、おかしくないか?という人によって再発見されたのが、もしかすると「Makerムーブメント」なのかな。と思います。
唐突なようですが、本来のものづくりもモチベーションは遊戯にあるとおもいます。カイヨウカイヨワの分類にはないですが「創造」は「擬態」から発生した新しい遊戯の1種じゃないかと思うんですよね。
本来のMakerムーブメントはSNSと無関係だったでしょうが、SNSのあるくらしで物足りなさを感じている人がMakerムーブメントを再発見した理由として、狂気からの脱却。ってのはあるのかな。と。

いや、狂気はあっていいんです。私の場合は狂わされてることに飽きましたね。なんか、SNSの仕組みの中で無自覚に狂気と肉薄することに飽きています。
踏み外す時は自覚的でありたいものです。



ご存知キングクリムゾンの「21st Century Schizoid Man」です。

Nothing he's got he really needs
欲しいもの、本当に必要な物は何も手に入らない。
Twenty first century schizoid man
21世紀の精神分裂症患者。
ですって。1968年に出来た曲(20世紀)なのに、達観してますね。
ちなみにレコ倫の指摘で最近は「21世紀のスキッツォイド・マン」という表記に変更されましたが「21世紀の精神異常者」の邦題のほうが通りが良いです。

2013/01/02

2013年

賢さ:人間の敵の最大なものふたり、つまり恐怖と希望を、私は鎖につないで、人々の間から遠ざける。
場所をあけなさい!皆さんは救われたのだ。 
- ゲーテ作 「ファウスト」 悲劇の第二部 (高橋健二 訳)
ゲーテに言わせると希望は、未来を夢見ることで今の努力を怠らせ、人間を堕落させる1つの敵だということです。例えば

「子供たちに希望あふれる未来を」

という言葉は、非常にいいことを言っているように聞こえますが、実は何も言っていません。

またゲーテは魔女の口を借りてこうも言います。
魔女エリヒト:【略】国を力づくで手に入れ力づよく支配している者は、だれもそれを他人にゆだねはしません。自分の内心を支配することのできぬ者ほど、とかく隣人の意思を、自分の高慢な心のままに、支配したがるものです。
ファウストの世界では自己を律して思いのままに理想を突き詰める方法は、まっとうな人間よりもむしろ魔物の方がよく知っています。魔物は欲につけこみたぶらかし、人間の自由を阻むのがなりわいなので、その逆の方法についても精通している設定が必要だからでしょう。

ファウスト:知恵の最後の結論はこうだ、
生活でも自由でも、これに値するのは、
これを日々に獲得してやまぬものだけだ。
だから、ここでは、危険に取りまかれて、
子どもも、おとなも、老人も有為な年を過ごす。
わしもそういう人の群れを見て、
自由な土地に自由な民とともに立ちたい。
そのときは、瞬間に向かってこう言ってよいだろう、
とどまれ、おまえは実に美しい!と。

これは主人公のファウストの生涯最後の台詞の一部です。
希望なんか持たず、危険に取りまかれた毎日をただ自分に向き合ってすごすこと。
瞬間に生き、変わっていくこと。
完成したあともなお変わろうとする過程が破壊なら、なにかが終わるということはないんでしょう。
ファウストの相棒、悪魔メフィストフェレスが人間の馬鹿さ加減に呆れながら吐いたセリフをたまに思い出しながら、なんちゅうか恋でもしているみたいな気分の2013年です。
メフィスト:自信をもちゃあ、生きるすべもわかります(As soon as you trust yourself, you will know how to live.)