2012/09/01

妻に死なれた男にしか見えない世界

漫画「さよならも言わずに」の感想です。
上野顕太郎の奥さん亡くなっていたんですね。 好きな作品がいくつかある漫画家です。「ひまあり」などいくつかの作中でたまに奥さんのエピソードを描いていて、家族を基点に表現している作家なんだな。と感じていました。
「さよならも言わずに」は、その大切な奥さんが2004年自宅で急死したという巨大なエピソードを核に、妻の死後、変わり果てた世界をこれでもかと描画したマンガ作品でした。

本作によると自室で仕事をしていた小1時間のうちに、それまで普段通りに生きていた奥さんが居間で死んでいた。心不全の発作で気絶した拍子にうつぶせになってしまったことが致命的だったとのことです。

本作で強烈に印象的な部分は、時系列のしっかりしたドキュメントとして仕上げていながらも、その時々の精神状態にあるウエケンにだけが見えている世界を忠実に描写したことで、絵画(えづら)がかなりグロテスクなシュルレアリスムになっているところです。
とはいってもそこから演出のにおいは全くしませんでした。読んだ後はただ、妻に死なれた男にしか見えない世界の実在を信じるようになりました。

物語は、愛する存在に死なれて悲しい。といったたぐいのセンチな空想ではなく、家族という日常を突然欠く絶望を緻密に(奥さんが亡くなってからは気持ちの移り変わりを綿密メモなどで記録していたのではないかというほどです)描画した拡張記録といったたぐいの内容です。そういうものは例がきわめて少ないように思います。

例えば居間にうつぶせて動かなくなっている妻をゆすりながら、目を開けようとまぶたをこじあけるたときに見た瞳孔の開き方で「死んでいる」と認識したときの驚きを、暗い水中に妻がひとりぼっちで沈んでいくさまに描いたり、妻が死んで「世界が意味を失った」と断じるシーンでは、安置された遺体の腹の部分に9歳の娘と上野が泥人形のように形を無くして押し寄せる様子として表現したりと、とにかく「こうなってしまうものなのか」と受け入れるしかない強烈な説得力があります。

また、リアルさという点では日頃病気がちな妻に対して、「めんどくさいな、いやだな」と感じていたことに触れ、さらに「自分の予定がくるってしまうのがいやだった」と振り返ってはまた強く自分を責めるところも印象的でした。

そのほかの壮絶な描写に関しては是非本作を読んでください。

ところで本作で最も印象に残ったのは、一番最後の妻の死後6年後の出来事についてです。

ネタバレ

上野はまた家族を取り戻します。つまり再婚するのですね。
再婚した、とは描いておらず、それを示唆して終わっているのですが、率直に感動しました。
たぶん上野は妻を亡くすという経験を記録、公開することで表現者としての力量を試すと同時に、家族を無くした経験を持つ人たちに、生きている限り世界の意味を取り戻すことは可能だという希望を示したんだと思います。

しかし、その一歩が輝かしく映るのは、なんといっても強烈に家族を愛した過去があればこそ。上野顕太郎。漫画家として男として、尊敬します。

ちなみに私はきれいごとでもなく、自分の相方には自分と死別してしまったら、また新たな世界を切り開いてもらいたいと思ってます。だってやっぱりひとりより仲間や家族がいたほうが楽しいし、この世では生きている人が幸せになることが重要なのですから(メンドクサイというのはあるかもだがそこは是非のりこえてもらって..)。

あ、電子版もあるので是非よんでみてください。
http://bookwalker.jp/pc/detail/9108bf23-f979-4362-a51b-f2c1072ec85d/

※注意!
電子版はAndroidやiOSのアプリで閲覧可能ですが、スマホサイズで読むと見開き表示ができません。本作は見開きで見ることを前提とした表現が多数出てきますので、お読みになる場合は是非スマホでなくてタブレットでお願いします。