2009/08/29

切り絵

切り絵が好きです。切るのが好きです。
ふらっと入った渋谷の古書店で購入した滝平 二郎の作品集に、本人のサインがたまたま入っていたのも運命だとおもうくらいです。
また、今年のGWは千葉の稲毛海岸のジャスコで二日間「切り絵実演」と書かれた看板の下、開店から閉店まで切り続けても平気でした。
もくもくと切っていると、となりで景品の引き換えをやっている大学生のおねいちゃんが「好きなんですねえー」と話しかけてきました。
うん!とわたしは元気よく応えました。おねいちゃんは「わたしもー、絵描いたりとかはすきなんですけどー。」というので、それはすばらしいねーとほめかけたところ「でもー、絵描いたりとかって仕事になんないじゃないですかー。芸術とかって将来ないですしー。私実は1年間だけ武蔵野美術大学通ったですけど将来不安になってやめて、薬科大学入り直したんですよおー」というので、堅実ですばらしいねー。に変更しました。
となりに座っていたにいちゃん学生も「ぼくは英語を勉強して30代まで年収一千万くらい狙ってるんす」というので、えらいねー。こころざしたかいねー。とまたほめました。
切り絵より、ほめることに一生懸命だったGWだったなー。と今思い出しました。

2009/08/28

DESIGN IT!2009

DESIGN IT!2009二日目に参加して、DITAのキーパーソンであるジョアン・ハッコスさんのお顔を拝見してきた。午後のパネルでは、私淑している高橋慈子さんのおはなしを拝聴。女性が仕切るパネルディスカッションなんてなんだか言語学的!(偏見)
DITAというのは、もともと取り扱い説明など、技術情報をデジタル化し、共有するための文書の設計方法のことです。
え、データ形式とかでないの?というかた。DITAはそもそもXMLスキーマなので形式ではないです。XMLもデータ形式ではないですよね。
で、そのDITAですが、もともとビックブラザーこと、IBMが開発しました。wikipediaでは「DITAにより提供される各基本要素を特殊化することで、利用組織の目的に合わせた情報アーキテクチャを構築することが可能となる。」と、3回読んでもよくわからない説明がなされていますね。噛み砕くと、DITAという規格が定めている要素(タグ)をうまく使ったり、指定の属性と組み合わせたりすることで、文字の固まりに存在意義を与えられるよ!ということです。ちなみに要素(例ではコンセプト要素)を並べるとこんなふうになります。

<concept id="concept">
<title>Bird Calling</title>
<conbody>
<p>Bird calling attracts birds.</p>
<example>
<p>Bird calling requires learning:</p>
<ul>
<li>Popular and classical bird songs</li>
<li>How to whistle like a bird</li>
</ul>
</example>
</conbody>
</concept>

なに?HTMLじゃだめなの?と思いますよね。わたしも思います。
ただ、DITAの場合、産まれたときの目的がはっきりしている、という点でHTMLとは異なります。DITAはそもそも、もの凄いページ数でありながら、クリティカルな用途のトリセツにむけて開発された言語であるらしい。それをいま、小さいアーキテクトにも応用しようとしてるらしい。その意図はいろいろあるだろうけども、とりあえずは製品取り扱い情報を、ウェブのテクノロジと連携させて広く再利用とか共有とかできるようにしたい。ということらしい。コンシューマとダイレクトに関係ない話ですが、そうしたほうがなにかと便利なんでしょうね。それを規格の策定に関わった人間自らが説いて回るってのもアメリカ人の底知れなさを知るところですが。
ちなみにジョアン・ハッコス女史はHP出身です。

ところで、トリセツといっても世の中にはいろんなトリセツがあります。ページ数の横綱としては、航空機のトリセツがありますが、ああいったものは、XMLでなんとかまとめられてコックピットに組み込まれたりしてるそうな。そういうのを編集するシーンを考えてみましょう。ね、大変です。参考となる編集方針が欲しいですよね。でないと、編纂に何年かかるか分かったもんじゃない。DITAは、規格通りにドキュメントを作成することで、既存の編集方針まで取り入れてしまえる。だから、大規模ドキュメントに強いと言われているのです(個々のトピックの書き方はまた別の議論ですよ)。
キャッチコピーをつけるとしたら、
「みんなのアーキテクチャ」
ないし
「サイボーグ編集長!」ですね(きっと顔はピエール瀧)。

あら?それってHTML5っぽくない?と思いませんか?わたしは思います。
たぶん、HTML5も最初はDITAっぽいセマンティックな編集方針を無理なく取り入れることを目的とせざるを得ない面はあったと思います。W3Cのまな板で議論するという目的を果たすために。
しかし、MSがやっと議論に加わった今となっては「これもこれもいらなくね?」という方向になるのは必然という方向のようです。だって言葉は目的ありき。HTML5って、周りを取り囲んでいる人を見ると、言葉を運ぶ葉っぱと思われてないものね。じゃあ言葉の運び方を教えてよ!となって、DITAに注目があつまる、という図式があるのですね。
でもあまりに、あまりに米国的!
仕組みをまんまとりいれることで、日本の文化もかわってゆくものなのかしら。
最後にもんもんとしたまま、おわります...。

2009/08/26

イベント:原研哉基調講演、emptiness

テクニカルコミュニケーションシンポジウム2009開催中です。
初日の今日はグラフィックデザイナーの原研哉氏による基調講演でした。
が、先生悪い風邪をひいてしまい、2008年10月23日のアップルストア銀座での講演のビデオ再演になりました。
原研哉が言う「emptiness」とは、シンプルのことではありません。
曰く、シンプルは効率を突き詰めて「簡単に作る」という経済上の都合と折り合いを付けるための表現形式であり、モダンという概念を産んだヨーロッパ特有の専売特許であるとのこと。「シンプルで静謐さを感じさせる和の空間」というようなコピーは単なる言葉遊びであるわけです。
では、デザインにおけるemptinessとは何かというと、究極は神社であるそうです。神社が、きまぐれな八百万の神にぷらっと寄ってもらうことを期待して、社を空にしているような状態といいます。
ここまできくと、「ああ、足し算でなくて引き算のデザインてやつね」と早くもがってんしたい気になりますが、そんなことは思ったところでなにひとつ実践に移せないのが社会の厳しさというものでしょう。だってデザインはひとりでやるもんじゃないですから、たいがい複数意見の反映のはて、足し算の作業になるはずなのです。
なので、成果物をそういうふうな状態にせよ、ということとは違うと思います。まさか原研哉ともあろう人がそんなおぼこい話をヒネリもなくするわけがない。
ようは、気持ちの問題。コミュニケーションの姿勢の望ましい姿を言っているのだと、私は理解しました。
そして理解すると同時に「おーい。できるかいそんなこと!」と自分自身にツッコミました。
続けて利休七則の
・茶は服のよきように
・炭は湯の沸くように
・夏は涼しく、冬は暖かに
・花は野にあるように
・刻限は早めに
・降らずとも雨の用意
・相客に心せよ
を引き、人間が感じる五感のよろこびは、しつらえの質で増減するものだと述べました。私の心のツッコミはここで最大級です。原研哉自身、そこへ到達することのけわしさを感じているからこその引用であり「無理だからどうすればいいか考える」ことのおもしろさを示しているわけですが、なんかすっかり真に受けて、どうすりゃいいんだと考え込んでしまいました。
たいていのデザイナーは他人の喜ぶ顔を見るのが好きです。どうすれば喜んでもらえるのかを考える生理を持っているとおもいます。しかし、そのぶん、自分をだましたり、対応に裏表を作ることも同時に可能です。私だけかもしれませんが、ピュアではないのです。しかも、ときに見返りを要求しますしね。
自然と人工のおりなす波打ち際で苦しめ。と原研哉は言いました。そしてくやしいかな言葉通りに、私は苦しんでいるのです。

2009/08/16

愛の情報過多β


愛の情報過多β, originally uploaded by yano rin.

2009年10月1日より、麻布十番のバーインフォキュリアスでインスタレーションをやります。
看板のビジュアルを作成しました。特に配布用の情報という位置付けではないので非常に文字の視認性が低いですね。
ちなみに本ビジュアルはらくがき帳にガリガリ描いたドローイングをスキャンして、Illustrator CS4のライブトレースでパスをとり、がんがん重ねまくって1枚絵にしています。
印刷するとまだメリハリがあってみやすい状態になります。
当日は大きめの用紙に印刷して店内に飾るつもりです。

2009/08/11

「WEBデザインメソッド」刊行記念イベント

ワークスコーポレーション主催によるイベントを、9/11アップルストアで開催します。

イベントフォースで詳細を見る



ウェブサイトやビジュアルデザインの向上を目指しているかた、
ビジュアルデザインに興味のあるかたにむけ、
その効果や重要性、テクニック的なお話までをする予定です。

ぜひとも、ふるってご参加ください!

2009/08/09

丸山数理、ゲルハルト・リヒター

2009年8月4日から9日まで開催の丸山数理個展-Déjà vu-に行ってきました。
丸山数理は現在ギャラリートリニティに所属の画家で、おもにアクリルを使ったドローイングを手がけています。
個展では、やや以前の抽象画や、近年の「ワタシト云ウ幻想ハ」シリーズ、同様のモチーフで描いた「或ル日、吹キ飛バサレテ」などを展示していました。

まず、抽象画の作品をじかに観るのは今回が始めて。で、想像以上に素晴らしかった。モチーフは風景なのですが、フォーカスが定まらない、いわゆる「ミスショット」にあたる風景写真のかたちを作家の脳内色彩変換装置でトランスフォームして再描画した作品です。モチーフはとろとろになるまで徹底的にぼけているんだけど、像のつながりから読み取れる情報があって、人間が居たり、街灯があったり、建物があったりというのがわかります。じっと観ていると、ああ、わたしも過去にまったく同じ風景をみたことがある。とか、あれはさむくてさみしい日だったなあ。とか過去の感情がぐーっと表に出てくるような感覚が起こりました。
同作品のように写真をモチーフとして描いた絵画はフォト・ペインティングというジャンルにあてはめて整理されていますが、この分野はドイツのゲルハルト・リヒターという作家のリングネームみたいなものです。リヒターはもともとアカデミーへの反抗心で写真をモチーフにすることを思いついたそうですが、モチーフがぼけてあいまいになることでおこる鑑賞者とのインタラクションは丸山数理と同じです。丸山数理はリヒターをもっと過激にしたようなかんじ。
ちなみにリヒターの作品は、東京国立近代美術館がいくつか所蔵しています。

さらに、今回初お目見えだった作家の心象風景を描いた作品「或ル日、吹キ飛バサレテ」。これがとてもよかった。イメージデータが公開されていないので言葉で説明するしかないですが、「ワタシト云ウ幻想ハ」シリーズで風景に佇んでいた人物が、部分的に雲とマージしている作品になっています。マージする様子は、砂で描いた人間を指で引っ掻いたかんじといえば伝わるでしょうか。粒子が風で飛ばされて雲と繋がっているというかんじ。
消えつつある人間、というとなんだかネガティブな印象を持ちますが、作品からはむしろ積極的に体や精神を風景まで拡張しているかのような、ポジティブな印象を受けました。
なぜ、ポジティブにみえるのか。ああ、わたしもむしろこうなりたい。という期待感というか、わくわく感を持つのはなぜなのか。作家本人にうかがったところ「それはきっとぼくが直感頼みでいつも制作してるからじゃないかな?本当になんにも考えてないんですから。ははは」という答えが。
「でも、ああ、今ってこういう気分、こういうかんじ。と、思いながら、えいやっ!と下絵も描かないで、仕上げちゃうんです」と。わたしはポスト物質時代の芸術家らしいな。素敵だな。と思いました。
そのあと、ふたりでしばらく話しましたが、今後定着させやすいデジタルでも作品をがんがんつくって量を増やしていくことの意義などで盛り上がりました。よく芸術作品に対してデジタルはダメでリアルは良いという判断をするむきがありますが、芸術性というのは作家の精神の問題が大きいですし、それにドローイングの場合、デジタルでも基本的なインプットは手描きですからテクニックは問われます。技術の問題というよりもむしろ、感じたままに定着するということってなんだかやってみる価値ありそうね。そのためにはデジタルって望ましい環境よね。というカンというか、方向性にわくわく感があればそこには何かがあるのだと思います。
最後に満面の笑顔で数理さん、「11月は代官山で地元の友達の顔をぐるぐる回す装置を展示する予定なんで、また来てくださいね!」と言ってました。
大爆笑しました。楽しみです。

2009/08/06

日本アンドロイドの会、あるいはデザイナーとデベロッパーの協業について

中学校の頃でしょうか。わたしはウィリアム・ギブソンのニューロマンサーという小説を読んで主人公のCaseに恋をしました。
重力にかまわず行動し、どこにでも入っては、取ってくる。電気みたいなCaseがかっこよくてかっこよくて。
そして思春期の少女らしく「いつかビットに乗った王子様が、わたしをサイバースペースに連れてってくれるはず」と夢想したものです。
そして大人になったとき、サイバースペースはギブソンの頭の外にもあるものだということを知りました。わたしもそこへいってはみたのですが、レイヤーが違うせいでか、Caseには会えませんでした。

あれから随分時間が経って、わたしはある人に会いました。その人はいつも自分用の小さなアンテナとクローム(窓)を持っていました。もしかするとCaseのレイヤーに通じているのはこの人かもしれない。私はその人を、入り口まで追いかけました。
入り口には「日本アンドロイドの会」と書いてありました。

結論を先に申しますと、日本アンドロイドの会にCaseは居ませんでした。ビットの世界の元気な幽霊がCaseだとすると、そこに居る「開発者」という人たちは面白いことにビットでアトムを拡張してしまうのです。

ニューロマンサーを読んだ事がないとわかりにくいかもしれませんが、Caseはアトムの世界では単なるアホです。人造人間Mollyちゃんが居ないとどうにもなりません。わたしが子供心にCaseを好きだったのは、そのコントラストに愛嬌を感じたせいもあります。しかしここにわたし自身の過去の認識がみてとれるでしょう。それは、Caseのようにコードの上を「走る」人間は、ビットの外で使える魔法、つまりアトムに影響及ぼすことが可能な魔法を持たない、という認識です。

では、開発者はどうでしょう。確かに開発者も時にコードの上を「走り」ます。しかしそれだけではありません。それと同時に、常に何かを「走らせ」ます。開発者にとって、走ることと走らせることは、どうやら同じことのようなのです。石ころからロボット、もちろん人間に至るまで、走ることで、走らせる。まるでCaseとMollyがひとつになったような存在が、開発者だ。というように、わたしは認識をあらためることになりました。

話は変わりますが、よくデザイナーとデベロッパーの協業に関する困難が、話題にのぼることがあると思います。こうした話題は開発者がビットの世界にしか影響力を持たず、アトムの世界に対する影響はデザイナーが引き受けるものだという認識を前提に語られていることはないでしょうか。だとすると、その前提は間違いです。
それは、互いの能力に差がない、という意味ではありません。互いが住んでいる世界に差がない。ということです。ウィリアム・J・ミッチェルが言ったように、もはやビットとアトムの世界に差は無いのです。違いがあるとすれば、それは物事へのアプローチのベクトルだけです。

ではこの問題について、デザイナーは何をすべきでしょうか。ここ最近わたしが考えている1つの理想は、アトムをビットに還元する際の精度をなんとかして高めることです。具体的にはもっとコードを理解することかもしれませんし、ツールを今以上に、まるで自分の体の一部であるかのように使うことかもしれません。機器のアーキテクチャを知ることでもあるでしょう。

そういうことがらを、もっと知りたいので、これからも日本アンドロイドの会で役割を見つけていきたいな。と思う次第です。そう。長くなってしまいましたが、これはデザイナーに対して会をアピールするための文章なのでした!

おしまい